「麦を食え」から「所得倍増」へ:池田勇人が描いた経済大国への夢

政治家

序章:失言で挫折した男が日本を経済大国に押し上げた

「貧乏人は麦を食え」——この一言で大臣の座を追われた男が、10年後に首相となり、日本を世界第2位の経済大国へと導いた。池田勇人。大蔵官僚出身の彼は、失言という屈辱を経験しながらも、「所得倍増計画」という壮大なビジョンで日本人の生活を一変させた。安保闘争で荒れた政治の季節を終わらせ、経済成長の時代を切り開いた「経済宰相」の生涯を追ってみよう。

第1章:広島の造り酒屋から大蔵官僚へ

瀬戸内の秀才少年

明治32年(1899年)12月3日、広島県豊田郡吉名村(現在の竹原市)で池田勇人は生まれた。父・池田善兵衛は代々続く造り酒屋を営む商人。幼い頃から利発で、特に数学が得意だった。複雑な計算を暗算でこなす能力は、後に「歩く計算機」と呼ばれるほどだった。

旧制広島一中、旧制第五高等学校を経て、京都帝国大学法学部に進学。大正14年(1925年)、26歳で大蔵省に入省し、エリート官僚としてのキャリアをスタートさせる。

大蔵官僚として頭角を現す

池田は主に税務畑を歩み、その数字に強い能力で上司たちを驚かせた。戦時中は主税局長として戦時税制を担当。敗戦後の昭和22年(1947年)、わずか47歳という異例の若さで大蔵次官に就任し、GHQとの折衝にあたった。

この大蔵次官時代、池田は当時の首相・吉田茂と運命的な出会いを果たす。吉田は池田の経済への深い理解と実務能力を高く評価し、政界入りを強く勧めた。昭和24年(1949年)、50歳での遅い政治家デビューだった。

第2章:「麦を食え」発言と屈辱の日々

運命の失言

衆議院議員に初当選した池田は、すぐに吉田内閣の大蔵大臣に抜擢される。戦後のインフレ収束に尽力したが、昭和25年(1950年)12月7日、国会で運命的な失言をする。

野党議員から所得の少ない人々の生活について問われた際、池田は答えた。「所得に応じた生活をすればいい。所得の少ない人は、米を食わなくても麦を食えばいい」

この発言は「貧乏人は麦を食え」として新聞各紙に大きく報道され、国民の怒りを買った。敗戦からわずか5年、多くの国民が食糧難に苦しんでいた時期に、あまりにも配慮を欠いた発言だった。野党は池田の辞任を要求し、同月28日、池田は涙ながらに大蔵大臣を辞任した。

挫折がもたらした変化

この事件は、池田を大きく変えた。それまでの彼は、数字と理論の世界に生きる官僚的な政治家だった。しかし、この屈辱を経験して、池田は「政治とは国民の生活を良くすることだ」という当たり前の真理を、身をもって理解したのである。

以後、池田は「国民所得の向上」を政治家としての最大の使命と考えるようになる。皮肉なことに、この失言こそが、後の「所得倍増計画」の原点だったのかもしれない。

第3章:「吉田学校」の番頭として再起

吉田茂は失言で辞任した池田を決して見捨てなかった。「失敗しない人間など、つまらん」と励まし、昭和27年(1952年)、再び池田を大蔵大臣に起用する。その後、通産大臣も務め、日本経済の復興に全力を尽くした。

池田は佐藤栄作、田中角栄らと並んで「吉田学校」の中心メンバーだった。「吉田学校の番頭」と呼ばれ、事務処理能力が高く、各派閥の調整役としても活躍。派手さはないが、確実に仕事をこなす信頼できる政治家として、党内での評価を高めていった。

第4章:総理大臣就任と「寛容と忍耐」

昭和35年(1960年)、日米安全保障条約の改定をめぐり国論は真っ二つに割れ、岸信介内閣が総辞職。後継の首相選びで、温厚な人柄が評価された池田が第58代内閣総理大臣に就任した。60歳だった。

就任演説で池田は「寛容と忍耐」をスローガンに掲げた。「私は、対立ではなく協調を、政治闘争ではなく経済成長を目指します」。安保闘争に疲れた国民の心に響く言葉だった。

池田の政治スタイルは「低姿勢」と評された。野党との対話を重視し、対決を避けた。「麦を食え」発言の苦い経験が、池田を謙虚にさせたのかもしれない。

第5章:所得倍増計画—壮大な経済実験

「所得を2倍にする」という大胆な公約

首相就任から5ヶ月後の昭和35年12月、池田は歴史的な計画を発表した。「国民所得倍増計画」である。「今後10年間で、国民の所得を2倍にします」——当時の日本人の平均月収は約2万円。それを4万円にするというのだ。

野党は「実現不可能な夢物語だ」と批判した。しかし池田は自信満々だった。大蔵官僚として長年培った経済への深い洞察が、「これはできる」と確信させたのだ。

計画の主な柱は、民間設備投資の促進、社会資本の整備、貿易の振興、農業の近代化、科学技術の振興などだった。特に画期的だったのは、経済成長の果実を賃金上昇という形で労働者に還元することを明確に打ち出したことだった。

7年で達成した「奇跡」

運も味方した。日本経済は「岩戸景気」と呼ばれる好況期に入り、GNPは年率10%を超える驚異的な成長を遂げた。テレビ、洗濯機、冷蔵庫のいわゆる「三種の神器」が各家庭に普及し始める。

昭和42年(1967年)、信じられない数字が発表された。国民所得が倍増を達成したのだ。目標の10年を待たず、わずか7年での達成だった。月収は約2万円から約6万円に、正確には2.88倍という驚異的な伸びである。

わずか10年で、日本人の生活水準は劇的に向上した。風呂は銭湯から自宅風呂へ、洗濯は手洗いから電気洗濯機へ、街頭テレビから自宅のカラーテレビへ。

第6章:知られざる池田勇人の素顔

温厚な「おじさん」の人柄

池田の最大の魅力は、その温厚な人柄だった。怒鳴ることはほとんどなく、部下の失敗にも「次は気をつけてくれ」と優しく諭す。秘書官の証言によれば、「総理はいつもニコニコしていました。こんな気さくな政治家は他にいませんでした」。

意外なことに、池田は全く酒が飲めなかった。「私は酒が飲めませんから、代わりに真心でお付き合いします」。この言葉通り、池田は誠実さで人々の信頼を得ていった。趣味は読書で、週末は自宅の書斎にこもって歴史書や小説を読むのが楽しみだった。

「歩く計算機」の異名

国会答弁で、池田は一切資料を見ずに複雑な統計を諳んじた。野党議員が細かい経済データで追及しようとすると、逆に池田の方が正確な数字を把握しており、議員が恥をかいたというエピソードが残っている。この実務能力の高さが、所得倍増計画の実現を可能にしたのだ。

第7章:病魔との闘いと最期

東京オリンピックへの思い

昭和39年(1964年)9月、池田は喉頭がんの診断を受けた。医師は「すぐに手術が必要です」と告げたが、池田は首を横に振った。「東京オリンピックの開会式には、必ず出席します」

10月10日、国立競技場のスタンドで、池田は開会を見届けた。顔色は悪く、明らかに病に侵されていたが、その表情には満足感が浮かんでいた。「日本がここまで来られたのだ」——これが、池田勇人の最後の公式行事となった。

11月9日、池田は退陣を表明。「所得倍増計画は道半ばですが、必ず日本は豊かになると信じています」。在任期間わずか4年4ヶ月。やり残したことは山ほどあった。

昭和40年(1965年)8月13日、東京の自宅で池田勇人は息を引き取った。享年65歳。葬儀には数千人が参列し、「池田さん、ありがとう」という声が、あちこちから聞こえた。

結論:「失言の男」から「経済宰相」へ

池田の死から3年後の昭和43年(1968年)、日本のGNPは西ドイツを抜いて世界第2位となった。これは池田の所得倍増計画が生み出した成果だった。「東洋の奇跡」と呼ばれた日本の経済成長は、世界を驚愕させた。

池田勇人の人生は、挫折と復活のドラマだった。「貧乏人は麦を食え」という失言で地に落ちた男が、10年後に首相となり、日本を経済大国に押し上げた。しかし、池田の真の偉大さは、失敗から学ぶ姿勢にあった。失言という屈辱を、国民の生活向上という使命に変えたのだ。

池田の特徴は、曖昧な言葉ではなく、具体的な数字で語ったことだ。「景気を良くします」ではなく、「10年で所得を2倍にします」。この明確さが国民の信頼を勝ち得た。そして何より、池田はその約束を守った。いや、約束以上の結果を出した。

池田は文字通り、命を賭けて国に尽くした。癌を患いながらも東京オリンピックの開会式に出席し、日本の復興を見届けた。そして65歳という若さで逝った。この献身的な姿勢こそ、後世に残る最大の遺産かもしれない。

「経済宰相」池田勇人。その名は、戦後日本の奇跡的な復興とともに、永遠に語り継がれるだろう。彼が残したのは、経済成長という結果だけでなく、「政治は国民のためにある」という当たり前の、しかし最も大切な真理なのだから。

焼け野原から経済大国へ。貧困から豊かさへ。絶望から希望へ。この奇跡の物語の中心に、「麦を食え」から「所得倍増」へと変貌を遂げた一人の男がいた。失言という屈辱をバネに、日本を変えた不屈の政治家——それが池田勇人である。


本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の逸話や評価については諸説あることをご了承ください。

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