「歴代最長政権」を築いた政治家:安倍晋三の光と影

政治家

序章:祖父の夢を継いだ男の、通算3188日

2022年7月8日。奈良の街頭演説中、銃声が響いた。安倍晋三元首相が凶弾に倒れた瞬間、日本中が衝撃に包まれた。67歳という、まだ若さの残る死だった。

安倍晋三——歴代最長となる通算3188日の政権を率い、「アベノミクス」で経済政策に新風を吹き込み、「積極的平和主義」で外交の舞台に立ち続けた男。祖父・岸信介、大叔父・佐藤栄作という二人の元首相を持つ「政治家のサラブレッド」は、いかにして日本政治の頂点に立ち、何を残したのか。

支持と批判が激しく交錯した稀代のリーダーの生涯を、多角的に振り返ってみよう。

第1章:政治家一族に生まれて

「岸・佐藤・安倍」の血統

昭和29年(1954年)9月21日、東京都新宿区で安倍晋三は生まれた。父は安倍晋太郎(後に外務大臣)、母は岸信介元首相の娘・洋子。つまり、安倍晋三は岸信介の孫であり、佐藤栄作の大甥にあたる。

「生まれた時から、政治家になることが決まっていた」——周囲はそう見ていた。実際、幼少期から政治家や財界人が出入りする環境で育ち、祖父・岸信介からは政治の薫陶を受けた。

岸信介は孫の晋三を特に可愛がり、よく膝の上に乗せて政治の話をした。「晋三、お前は将来、必ず総理大臣になる。そして、私が成し遂げられなかった憲法改正をやり遂げるのだ」——岸のこの言葉が、晋三の人生を決定づけた。

成蹊大学からサラリーマンへ

意外なことに、安倍の学歴は「エリートコース」ではない。成蹊小学校から成蹊大学法学部まで、いわゆる「エスカレーター式」で進学した。東京大学や京都大学といった名門校ではない。

このことは、後に政敵から「学歴が低い」と揶揄されることもあった。しかし安倍本人は、「東大に行かなかったからこそ、庶民感覚を持てた」と語っている。

大学卒業後、昭和54年(1979年)に神戸製鋼所に入社。約3年間、サラリーマン生活を送った。この経験が、後の経済政策に活きたと安倍は述懐している。

父・晋太郎の秘書、そして政界へ

昭和57年(1982年)、父・安倍晋太郎が外務大臣に就任すると、晋三は秘書として政治の世界に入る。父の背中を見ながら、政治の現場を学んでいった。

しかし、平成3年(1991年)、父・晋太郎が67歳で急逝。「総理大臣になる」という父の夢は叶わなかった。晋三は、父の遺志を継ぐ決意を固める。

平成5年(1993年)、38歳で衆議院議員選挙に山口県から立候補し、初当選。政治家・安倍晋三の誕生である。

第2章:官房長官として頭角を現す

小泉政権下での抜擢

安倍が一躍注目を浴びたのは、小泉純一郎政権での官房長官就任(平成17年・2005年)だった。当時50歳。若手の登用として話題になった。

小泉首相は安倍を高く評価していた。「彼は若いが、しっかりしている。将来の総理候補だ」。実際、安倍は官房長官として、難しい案件を次々とこなしていった。

「拉致問題」と安倍晋三

安倍の名を一躍有名にしたのが、北朝鮮による日本人拉致問題への取り組みだった。

平成14年(2002年)、小泉首相の訪朝に同行した安倍は、北朝鮮が拉致を認めたことを受けて、強硬な姿勢を貫いた。「拉致被害者を全員返せ。交渉の余地はない」——この強い態度が、国民の支持を集めた。

拉致被害者家族とも密接に連携し、「安倍さんこそが、私たちの味方だ」と信頼された。この「拉致問題の安倍」というイメージが、政治家としての基盤を固めた。

「戦後レジームからの脱却」

この頃から、安倍は自らの政治理念を明確にし始める。それが「戦後レジームからの脱却」である。

「戦後レジーム」とは、敗戦後の占領期に形成された政治・社会・経済の仕組みのこと。憲法、教育、安全保障——すべてが戦後の枠組みの中にある。これを見直し、日本を「普通の国」にしたい。これが安倍の構想だった。

保守派からは熱烈に支持されたが、左派からは「右傾化」「軍国主義の復活」と激しく批判された。

第3章:第一次安倍政権—挫折と屈辱

史上最年少(当時)の首相就任

平成18年(2006年)9月26日、安倍晋三は第90代内閣総理大臣に就任。52歳という戦後最年少(当時)の首相誕生だった。

就任演説で、安倍は力強く語った。「美しい国、日本を作ります。戦後レジームから脱却し、新しい日本を創造します」。理想に燃える若き首相の誕生に、国民は期待した。

しかし、この第一次安倍政権は、わずか1年で終わることになる。

次々と起こるスキャンダル

政権発足直後から、閣僚のスキャンダルが相次いだ。農林水産大臣が「事務所費問題」で辞任、後任の農水大臣も「政治資金問題」で自殺するという衝撃的な事件が起きた。

さらに、「消えた年金記録問題」が発覚。約5000万件の年金記録が不明になっているという、前代未聞のずさんな管理が明らかになった。国民の怒りは政権に向けられた。

参院選惨敗、そして突然の辞任

平成19年(2007年)7月の参議院選挙で、自民党は歴史的大敗を喫した。安倍政権への不信任である。

それでも安倍は続投を表明したが、9月12日、突然辞任を発表。理由は「体調不良」だった。実際、安倍は持病の潰瘍性大腸炎が悪化し、首相執務に耐えられない状態だったという。

就任からわずか366日。「史上最短クラスの政権」として、安倍は屈辱の退陣を余儀なくされた。

「再起不能」と言われた日々

辞任後の安倍に対する世間の目は、冷たかった。「病気で辞めた弱い政治家」「もう二度と這い上がれない」——メディアは容赦なく批判した。

安倍本人も、深い挫折感に苦しんだという。「私は政治家として終わったのか」。病気の治療をしながら、安倍は自問し続けた。

しかし、安倍は諦めなかった。「もう一度、チャンスをください。今度こそ、やり遂げます」——この執念が、安倍を再起させる。

第4章:劇的な復活—第二次安倍政権

5年ぶりの首相返り咲き

平成24年(2012年)12月26日、安倍晋三は再び首相の座に就いた。第96代内閣総理大臣である。一度首相を辞めた人物が再び首相になるのは、吉田茂以来、64年ぶりの快挙だった。

「奇跡の復活」と言われた。しかし安倍は、この5年間、決して無為に過ごしていたわけではない。病気を克服し、政策を練り直し、再起の機会をじっと待っていた。

就任会見で、安倍は決意を語った。「前回の反省を活かし、今度こそ、しっかりとした政権運営をします」。その言葉通り、第二次安倍政権は、驚くべき長期政権となる。

アベノミクス—「三本の矢」

安倍が最初に打ち出したのが、経済政策「アベノミクス」である。「三本の矢」と呼ばれる政策パッケージだった。

第一の矢:大胆な金融政策 日本銀行に大規模な金融緩和を実施させ、デフレからの脱却を目指す。黒田東彦日銀総裁の下、「異次元の金融緩和」が始まった。

第二の矢:機動的な財政政策 公共投資を増やし、景気を下支えする。

第三の矢:民間投資を喚起する成長戦略 規制緩和や構造改革で、民間企業の活力を引き出す。

この政策により、株価は急上昇し、円安が進み、企業業績は改善した。「アベノミクスで景気が良くなった」という声が広がった。

ただし、恩恵を受けたのは主に大企業や富裕層で、一般庶民の実質賃金はあまり上がらなかった。「格差が広がった」という批判も根強い。

集団的自衛権の行使容認

安倍政権の最も論争的な政策が、集団的自衛権の行使容認である。

平成26年(2014年)7月、安倍内閣は憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った。これは、歴代政権が「憲法上できない」としてきた政策の大転換だった。

翌年、安全保障関連法案が国会に提出されると、国会前には連日、反対デモが押し寄せた。「戦争法案反対!」「安倍政権を倒せ!」——国会周辺は騒然となった。

しかし安倍は、方針を曲げなかった。「日本の安全を守るために必要な措置だ」として、強行採決で法案を成立させた。

歴代最長政権への道

第二次安倍政権は、驚くべき長期政権となった。平成26年(2014年)、平成29年(2017年)の衆院選で連勝し、政権基盤を固めた。

そして令和元年(2019年)11月20日、安倍の首相在職日数は、大叔父・佐藤栄作の記録(2798日)を抜いて戦後最長となった。通算では3188日。まさに「一強」の時代だった。

第5章:外交での存在感—「地球儀を俯瞰する外交」

「ロシアのプーチン、トランプとの関係」

安倍外交の特徴は、各国首脳との個人的関係構築にあった。「地球儀を俯瞰する外交」と自ら名付け、世界中を飛び回った。

特に力を入れたのが、ロシアのプーチン大統領との関係だった。北方領土問題の解決を目指し、プーチンと27回も会談を重ねた。「ウラジーミル」「シンゾー」とファーストネームで呼び合う仲になった。

しかし、北方領土は返還されなかった。プーチンは最後まで、領土問題で譲歩しなかった。「安倍外交の失敗」との評価もある。

アメリカのトランプ大統領との関係も注目された。トランプの就任直後から、安倍は頻繁にアメリカを訪問。ゴルフ外交を展開し、「ドナルド」「シンゾー」と呼び合う関係を築いた。

「地球儀外交」の成果と限界

安倍は首相在任中、80カ国以上を訪問し、のべ200回以上の首脳会談を行った。この行動力は驚異的で、「世界で最も顔が知られた日本の首相」となった。

特にアジア・アフリカ諸国との関係強化に力を入れ、インフラ投資などで日本の存在感を示した。「安倍首相のおかげで、日本は再び尊敬される国になった」という評価もある。

ただし、「外遊ばかりで国内をおろそかにしている」という批判もあった。また、巨額のODA(政府開発援助)を約束して回ったことに、「ばらまき外交」との批判もある。

第6章:知られざる安倍晋三の素顔

「妻・昭恵夫人との関係」

安倍の妻・昭恵夫人は、「家庭内野党」と呼ばれるほど、夫とは異なる主張をすることで知られていた。

昭恵夫人は、原発反対、LGBT支援、大麻の医療利用研究など、リベラル的な主張を展開。安倍政権の方針とは正反対のこともあった。

しかし、安倍は妻の活動を容認していた。「家内は家内で、自由にやればいい」。この懐の深さが、安倍の人間的魅力だったという見方もある。

ただし、昭恵夫人は「森友学園問題」でも注目を浴び、政権の足を引っ張る存在ともなった。

カレー好きで知られる「庶民派」?

安倍はカレーが大好きで、国会近くのカレー店によく足を運んでいた。「総理のカレー」として話題になり、店は繁盛した。

また、ラーメンも好きで、深夜にラーメン店に現れることもあった。SPに囲まれながら、カウンターでラーメンをすする姿が、SNSで話題になった。

このような「庶民的」な一面が、支持者からは好感を持たれた。一方、批判者からは「庶民派を演出しているだけ」と見られることもあった。

「モリカケ問題」と政権の傷

安倍政権を最も揺さぶったのが、「森友学園問題」と「加計学園問題」、いわゆる「モリカケ問題」である。

森友学園への国有地売却、加計学園の獣医学部新設——いずれも、安倍首相や昭恵夫人の関与が疑われた。野党は「総理の友人や妻が優遇されたのではないか」と追及した。

安倍は一貫して関与を否定したが、公文書改竄や証人喚問など、疑惑は深まるばかりだった。この問題は、安倍政権の支持率を大きく下げる要因となった。

第7章:コロナ、そして突然の辞任

「アベノマスク」の失策

令和2年(2020年)、新型コロナウイルスが世界を襲った。安倍政権も、この未曾有の危機に対応を迫られた。

しかし、安倍政権のコロナ対応は、必ずしも評価されなかった。特に「アベノマスク」——全世帯に布マスクを2枚配布するという政策は、「ケチくさい」「効果が薄い」と批判された。

配布が遅れ、マスクが小さすぎるなどの問題も発覚。「アベノマスク」は、安倍政権の失策の象徴となってしまった。

再び体調悪化、そして辞任

令和2年8月28日、安倍は突然、辞任を表明した。理由は、持病の潰瘍性大腸炎の再発だった。

「体調が悪化し、国民の負託に応えられない」——苦渋の決断だった。在任日数3188日。歴代最長記録を打ち立てたものの、志半ばでの退陣となった。

憲法改正という祖父・岸信介から受け継いだ悲願は、ついに果たせなかった。

第8章:令和4年7月8日—凶弾に倒れる

奈良での演説中に

令和4年(2022年)7月8日午前11時半過ぎ。奈良市内で街頭演説中の安倍晋三に、銃声が響いた。

犯人の男が、手製の銃で安倍を背後から撃ったのだ。安倍は倒れ、病院に搬送されたが、午後5時過ぎ、死亡が確認された。享年67歳。

日本中が衝撃に包まれた。元首相が、白昼堂々、街頭で銃撃されるという、信じがたい事件だった。

国葬という選択

岸田文雄首相(当時)は、安倍の葬儀を「国葬」とすることを決定した。戦後の首相経験者では、吉田茂以来2人目である。

しかし、この決定は賛否両論を呼んだ。「歴代最長の首相であり、国葬にふさわしい」という意見がある一方、「モリカケ問題などの疑惑がある人物を国葬にすべきではない」という反対意見も強かった。

令和4年9月27日、日本武道館で国葬が営まれた。国内外から約4000人が参列し、安倍の死を悼んだ。

結論:評価が分かれる「安倍晋三」という政治家

安倍晋三という政治家をどう評価するか——これは、今も日本社会で意見が大きく分かれている。

肯定的評価

  • 歴代最長政権で、政治の安定をもたらした
  • アベノミクスで株価を上昇させ、企業業績を改善した
  • 外交で日本の存在感を高めた
  • 拉致問題に真剣に取り組んだ

否定的評価

  • アベノミクスの恩恵は大企業・富裕層に偏り、格差が拡大した
  • 安保法制の強行採決など、強引な政権運営だった
  • モリカケ問題など、疑惑に真摯に答えなかった
  • 憲法改正を目指す姿勢が、戦前回帰を思わせる

おそらく、「安倍晋三」という政治家の評価が定まるのは、まだ先のことだろう。歴史の審判を待つしかない。

ただ、一つ確実に言えることがある。それは、安倍晋三が「祖父の夢」を生涯追い続けた政治家だったということだ。

岸信介から受け継いだ「憲法改正」という悲願。安倍は、それを実現できなかった。しかし、その夢を追い続ける姿勢は、決してブレなかった。

「美しい国、日本」「戦後レジームからの脱却」——安倍が掲げたスローガンは、理想主義的で、時に現実離れしているように見えた。しかし、その理想を信じ、実現しようとする情熱は本物だった。

67歳という若さで凶弾に倒れた安倍晋三。その政治的遺産は、今後の日本政治にどのような影響を与えるのか。それを見守るのは、私たち自身である。

本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、安倍元首相の死去から日が浅く、一部の会話や内面描写は資料を基にした筆者による再構成であることをご了承ください。また、政治的評価については多様な見解があることを理解した上でお読みください。

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