「平民宰相」が暗殺された夜:原敬の理想と悲劇

政治家

序章:東京駅で刺された「本当の政党政治」の夢

大正10年(1921年)11月4日、夕刻。東京駅のプラットホームで、一人の男が刺殺された。犯人は、わずか18歳の国鉄職員。被害者は、時の内閣総理大臣・原敬だった。

「平民宰相」と呼ばれた男の、あまりにも突然の死。日本初の本格的政党内閣を率い、普通選挙の実現を目指し、地方の発展に情熱を注いだ政治家は、なぜ殺されなければならなかったのか。

原敬——盛岡藩の下級武士から、爵位を持たない「平民」の総理大臣へ。新聞記者、外交官を経て政界入りし、政友会を率いて権力の頂点に立った男。その政治手腕は「原敬の魔術」と呼ばれ、政敵さえも一目置いた。

しかし、その政治は「我田引鉄」と批判され、汚職の噂に包まれ、ついには凶刃に倒れる。理想と現実、清廉と汚職、光と影が交錯する、「平民宰相」の生涯を追ってみよう。

第1章:南部藩の没落士族から新聞記者へ

盛岡の下級武士の家に

安政3年(1856年)2月9日、陸奥国盛岡(現在の岩手県盛岡市)で原敬は生まれた。父・原直治は南部藩(盛岡藩)の下級武士。家禄はわずか40石という貧しい家だった。

幼名は健次郎。幼少期から聡明で、特に記憶力が抜群だった。一度見た漢文は、ほぼ暗記できたという。この記憶力が、後の政治家としての武器となる。

しかし、原の少年時代は、激動の時代だった。戊辰戦争で南部藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍に敗北。「朝敵」の汚名を着せられ、藩士たちは困窮した。

司法省法学校での挫折

明治4年(1871年)、15歳の原は上京し、司法省法学校(後の東京大学法学部の前身)に入学した。苦学しながら法律を学んだ。

しかし、明治7年(1874年)、原は突然退学する。理由は、キリスト教への改宗だった。原は、フランス人教師の影響でカトリックの洗礼を受けたのだが、当時はまだキリスト教への偏見が強かった。

学校を辞めた原は、職を転々とした。郵便局員、翻訳の仕事——どれも長続きしなかった。20代前半の原は、将来の展望が見えない日々を送っていた。

新聞記者として開花

明治15年(1882年)、26歳の原は「郵便報知新聞」の記者となる。ここで、原の才能が開花した。

鋭い政治分析、分かりやすい文章、そして何より、政治家たちとの人脈作りの巧みさ。原は瞬く間に、一流の政治記者として頭角を現した。

新聞記者時代の原は、政治の裏も表も知り尽くした。誰が誰と対立しているか、どの派閥が強いか、どの政策が実現可能か——すべてを見抜く眼を養った。

この経験が、後の「原敬の魔術」の基礎となる。

第2章:外交官から官僚、そして政界へ

外務省入り—陸奥宗光との出会い

明治16年(1883年)、原は外務省に入省する。新聞記者として培った人脈が、ここで活きた。特に、外務大臣・陸奥宗光との出会いが、原の人生を変えることになる。

陸奥は、原の才能を高く評価した。「この男は使える」。原はパリ公使館、天津領事などを歴任し、外交官としての経験を積んだ。

特に、日清戦争(明治27年・1894年)前後の緊迫した外交局面で、原は陸奥を支えた。この時の経験が、原に国際感覚と、現実主義的な政治観を与えた。

農商務省次官として辣腕

明治30年(1897年)、41歳の原は農商務省次官に就任。ここでも、原は実務能力の高さを示した。

原の特徴は、「できることから確実にやる」という現実主義だった。理想論を振りかざすのではなく、実現可能な政策を着実に進める。この手法が、官僚として高く評価された。

政友会への参加—伊藤博文との出会い

明治33年(1900年)、伊藤博文が政党「立憲政友会」を結成。原は、この政友会に参加することを決意する。44歳での政界入りだった。

なぜ原は、安定した官僚の地位を捨てて、政界に飛び込んだのか?それは、「本当の政治は、政党がやるべきだ」という信念からだった。

伊藤博文は、原の能力を見抜いていた。「原を政友会の幹事長にする」。伊藤の決断により、原は政友会の実質的なナンバー2となった。

第3章:政友会の実力者へ—「原敬の魔術」

明治38年(1905年)、衆議院議員に初当選

原は盛岡から衆議院議員選挙に立候補し、49歳で初当選を果たす。遅咲きの政治家だった。

しかし、原の頭の中には、すでに明確な戦略があった。「地方を固めて、中央を取る」——これが原の基本戦略である。

盛岡を中心とする岩手県で、原は徹底的に地盤を固めた。道路を作り、鉄道を通し、港を整備する。地元への利益誘導を惜しまなかった。

この手法は「我田引鉄」と批判されることもあったが、原は意に介さなかった。「地方が豊かにならなければ、日本は豊かにならない」——これが原の信念だった。

桂園時代の政争

明治40年代から大正初期にかけて、日本の政界は「桂園時代」と呼ばれる時代を迎える。桂太郎(長州閥)と西園寺公望(政友会総裁)が、交互に政権を担当した時代である。

この時期、原は政友会の実質的なリーダーとして、桂太郎と激しく対立した。表向きは西園寺が総裁だったが、実際に政友会を動かしていたのは原だった。

「原敬の魔術」——政敵たちは、原の政治手腕をこう呼んだ。派閥を巧みに操り、取引を重ね、時には妥協し、時には強硬に出る。その政治センスは、抜群だった。

「平民」であることへのこだわり

原には、一つの強いこだわりがあった。それは、「爵位を持たない」ということである。

明治・大正時代、有力政治家の多くは華族(貴族)だった。爵位を持つことが、一種のステータスだった。原にも、何度も爵位授与の話があったが、原は断り続けた。

「私は平民として生きる。平民の代表として、政治をする」——原の信念だった。

この姿勢が、「平民宰相」という愛称につながった。国民は、爵位を持たない原に、親しみと期待を抱いた。

第4章:ついに総理大臣へ—「本格的政党内閣」の誕生

大正7年(1918年)9月29日、首相就任

大正7年(1918年)9月29日、原敬は第19代内閣総理大臣に就任した。62歳。爵位を持たない、初の「平民宰相」の誕生である。

しかも、原内閣は陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣を除く全ての閣僚が政友会員という、日本初の本格的政党内閣だった。それまでの内閣は、藩閥や官僚出身者が中心だったが、原内閣は違った。

「これで、本当の政党政治が始まる」——国民の期待は高まった。

「積極政策」の推進

原内閣が掲げたのが、「積極政策」である。その内容は:

教育の拡充:高等教育機関を増設し、国民の教育水準を引き上げる。東北帝国大学(現在の東北大学)など、地方の大学設立を推進した。

鉄道網の整備:全国に鉄道を張り巡らせ、物流と人の移動を活発化させる。「鉄道は国の血管だ」というのが原の持論だった。

産業の育成:造船業、製鉄業など、重要産業を育成する。

地方の開発:特に、東北地方など「後進地域」の開発に力を入れた。

この政策により、日本経済は活況を呈した。大正時代の繁栄は、原の積極政策に支えられていたといえる。

「我田引鉄」という批判

しかし、原の政策には批判も多かった。特に有名なのが「我田引鉄」という言葉である。

原の地元・岩手県には、次々と鉄道が敷設された。「原は、自分の選挙区に鉄道を引いているだけだ」——野党や新聞は、こう批判した。

原は反論した。「東北は長年、見捨てられてきた。今こそ、東北を発展させる時だ」。確かに、東北地方の開発は遅れていた。原の主張にも一理あった。

ただし、政友会の議員たちも、それぞれの選挙区に利益を誘導した。これが「利益誘導政治」の原型となったことは、否定できない。

第5章:シベリア出兵と米騒動

シベリア出兵の決断

大正7年(1918年)8月、原内閣はシベリア出兵を決定した。ロシア革命後の混乱に乗じて、シベリアに軍を派遣するというものだった。

原は、この出兵に慎重だった。「深入りすべきではない」と考えていた。しかし、軍部の圧力と、欧米列強との協調という国際的な事情から、出兵を決断せざるを得なかった。

結果的に、このシベリア出兵は失敗だった。莫大な費用を費やしながら、何も得られずに撤退することになる。原にとって、大きな政治的痛手となった。

米騒動への対応

大正7年夏、「米騒動」が全国で発生した。シベリア出兵による米の買い占めで米価が高騰し、庶民が買えなくなったのだ。

富山県の漁村から始まった抗議行動は、またたく間に全国に広がった。米屋が襲撃され、警察と民衆が衝突した。

原内閣は、軍隊を出動させて鎮圧した。一方で、米の放出や価格統制を実施し、事態の収拾を図った。

この米騒動への対応は、評価が分かれる。「迅速な対応だった」という評価もあれば、「軍隊を出すのは過剰だった」という批判もある。

第6章:普通選挙への道と挫折

「時期尚早」論

原の時代、最大の政治課題の一つが「普通選挙」だった。当時の選挙権は、一定額以上の納税者に限られていた。つまり、金持ちしか投票できなかったのだ。

「すべての成年男子に選挙権を!」——これが、民主化運動の叫びだった。

しかし原は、普通選挙に慎重だった。「時期尚早だ。まだ国民の教育水準が低い。普通選挙を実施すれば、混乱が起きる」——これが原の主張だった。

この姿勢は、激しく批判された。「平民宰相と言いながら、民主化に反対するのか!」——学生や知識人たちは、原を非難した。

原の本音

では、原は本当に普通選挙に反対だったのか?実は、そうでもないらしい。

原の日記には、こう書かれている。「普通選挙は、いずれ実現しなければならない。しかし、今やれば、社会主義者や過激派が当選してしまう。もう少し、国民の教育が進んでからだ」。

つまり、原は普通選挙そのものには反対ではなかった。ただ、タイミングを慎重に見極めていたのだ。

しかし、この「時期尚早」論が、原の命を奪うことになる。

第7章:大正10年11月4日—東京駅の悲劇

京都へ向かう夜

大正10年(1921年)11月4日。原敬は、東京駅から京都へ向かう予定だった。政友会の党大会に出席するためである。

夕方6時過ぎ、原は東京駅に到着した。見送りの人々に囲まれながら、プラットホームを歩いていた。

そこへ、一人の若者が近づいてきた。国鉄職員の中岡艮一、18歳。中岡は、短刀を隠し持っていた。

「政治の腐敗を正す」

午後7時23分。中岡は、原の背後から短刀で刺した。一撃だった。しかし、その一撃は急所を貫いていた。

原は倒れ、駅員たちが駆け寄った。しかし、すでに意識はなかった。午後7時46分、原敬は絶命した。享年65歳。

中岡はその場で逮捕された。取り調べで、中岡はこう語った。

「原は政治を腐敗させた。普通選挙に反対し、利益誘導政治を行った。私は、日本のために原を殺した」

18歳の青年による、政治テロだった。

日本中が震撼

現職の総理大臣が、白昼堂々、東京駅で刺殺される——前代未聞の事件だった。日本中が震撼した。

しかし、驚くべきことに、中岡に同情する声も少なくなかった。「原の政治は、確かに問題があった」「中岡は、純粋な愛国心からやったのだ」——そんな意見さえあった。

これは、原の政治への批判が、いかに強かったかを示している。利益誘導、汚職の噂、普通選挙への消極的姿勢——これらが、原への不満を募らせていたのだ。

第8章:知られざる原敬の素顔

膨大な日記を残した記録魔

原は、明治7年(1874年)から死の直前まで、47年間にわたって日記をつけ続けた。その量は、原稿用紙に換算して約1万枚。膨大な記録である。

この日記は、明治・大正時代の政治史を知る上で、極めて貴重な史料となっている。原が何を考え、誰と会い、どんな決断をしたのか——すべてが記録されている。

几帳面で、記録魔だった原の性格が、よく表れている。

生涯独身を貫いた理由

原は、生涯独身だった。結婚しなかった理由は、はっきりしていない。

一説には、若い頃に恋した女性との結婚が、家の事情で破談になり、それ以来、結婚する気をなくしたという。

また、政治に専念するため、あえて結婚しなかったという説もある。

いずれにせよ、原は一人で暮らし、一人で政治に打ち込んだ。その孤独な姿が、「平民宰相」のイメージと重なる。

地元・盛岡への愛着

原は、故郷・盛岡を深く愛していた。総理大臣になってからも、盛岡には頻繁に帰郷した。

盛岡のために、原は惜しみなく尽くした。鉄道を通し、学校を作り、港を整備した。「我田引鉄」と批判されても、原は地元のためにできることをすべてやった。

盛岡市民は、原を誇りに思っていた。「原先生は、盛岡の誇りだ」。今も、盛岡には原敬の記念館があり、多くの市民が訪れている。

酒と囲碁を愛した人間臭さ

原は、酒が好きだった。夜になると、料亭で酒を飲みながら、政治家たちと密談した。この酒席での会話が、しばしば重要な政治決定につながった。

また、囲碁も好きだった。休日には、友人たちと囲碁を打って過ごした。政治の緊張から解放される、貴重な時間だった。

こうした人間臭い一面が、原の魅力でもあった。

第9章:原敬が残したもの

「本格的政党内閣」の先駆け

原内閣は、日本初の本格的政党内閣だった。それまでの藩閥政治から、政党政治への転換——その第一歩を踏み出したのが、原敬である。

原の死後、日本は「憲政の常道」と呼ばれる時代を迎える。政友会と民政党が交互に政権を担当する時代である。この政党政治の基礎を作ったのが、原だった。

「地方重視」という遺産

原の政治の特徴は、地方を重視したことである。それまでの政治は、東京を中心とした中央集権的なものだった。

しかし原は、「地方が豊かにならなければ、日本は豊かにならない」と考えた。東北地方など、遅れた地域の開発に力を入れた。

この「地方重視」の姿勢は、現代にも通じる課題である。東京一極集中が問題となっている今、原の考え方には学ぶべき点が多い。

「利益誘導政治」という負の遺産

ただし、原の政治には負の側面もあった。それが「利益誘導政治」である。

地元に鉄道を引き、港を作り、学校を建てる——これらはすべて、選挙での票につながった。原は、この仕組みを完成させた。

以後、日本の政治は長らく、この利益誘導政治に支配されることになる。「族議員」「利権政治」——その原型は、原敬の時代に作られたといえる。

結論:「平民宰相」は何を夢見たのか

原敬は、何を夢見ていたのだろうか。

おそらく、それは「本当の民主政治」だった。藩閥や官僚ではなく、国民に選ばれた政党が政治を行う。そんな時代を、原は目指していた。

「平民宰相」という愛称が示すように、原は爵位を持たない、庶民出身の政治家だった。だからこそ、庶民の生活を良くしたいという思いは、本物だった。

しかし、原の政治手法は、必ずしも理想的ではなかった。利益誘導、派閥政治、妥協と取引——これらは、「汚い政治」と批判された。

原自身も、このジレンマに悩んでいたのではないか。理想を実現するためには、現実的な手段が必要だ。しかし、その手段が汚れていれば、理想も汚れてしまう。

東京駅で倒れた原の胸には、どんな思いがあったのだろうか。「まだやり残したことがある」「普通選挙も、いずれは実現するつもりだった」——そんな無念の思いがあったかもしれない。

65歳。まだ若い。もう少し時間があれば、原はもっと多くのことを成し遂げられたかもしれない。

しかし、歴史に「もしも」はない。原敬は東京駅で倒れ、その夢は中断された。

ただ、原が蒔いた種は、確実に芽吹いた。政党政治、地方の発展、教育の拡充——これらは、原の遺産である。

盛岡の街を歩くと、今も原敬の足跡が残っている。鉄道、学校、港——原が作ったものは、今も地域を支えている。

「平民宰相」原敬。その生涯は、理想と現実の間で葛藤し続けた、一人の政治家の物語だった。完璧ではなかったかもしれない。しかし、原は確かに、日本の民主政治の礎を築いた。

東京駅のプラットホームに立つと、今もあの夜の悲劇が思い起こされる。しかし同時に、原敬という政治家の、不屈の精神も感じられる。

「地方を大切にすること」「庶民の目線で政治をすること」「理想を持ちながら、現実と向き合うこと」——原敬が残したメッセージは、令和の今も、色あせていない。


本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の逸話や評価については諸説あることをご了承ください。

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