「昭和の妖怪」と呼ばれた男:岸信介の光と影

政治家
  1. 序章:A級戦犯容疑者から総理大臣へ—日本史上最も毀誉褒貶の激しい政治家
  2. 第1章:山口の秀才から東大、そして満州へ
    1. 長州の名家に生まれて
    2. 東京帝大から農商務省へ
    3. 満州へ—「満州の妖怪」の誕生
  3. 第2章:東条内閣の商工大臣として戦争を遂行
    1. 商工大臣就任—戦時経済の司令塔
    2. 東条との確執と辞任
  4. 第3章:A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンへ
    1. 敗戦と逮捕
    2. 巣鴨プリズンでの日々
    3. 不起訴・釈放—奇跡の生還
  5. 第4章:政界復帰—「逆コース」の旗手として
    1. 政界復帰への執念
    2. 「逆コース」の象徴
    3. 鳩山内閣で幹事長就任
  6. 第5章:遂に総理大臣へ—「安保改定」という使命
    1. 昭和32年2月25日、首相就任
    2. 旧安保条約の問題点
    3. アメリカとの交渉
  7. 第6章:60年安保闘争—戦後最大の政治闘争
    1. 国会周辺を埋め尽くすデモ隊
    2. 強行採決—昭和35年5月19日の悲劇
    3. 6月15日—樺美智子さんの死
    4. アイゼンハワー訪日中止
    5. 6月19日—新安保条約自然承認
    6. 6月23日—退陣表明
  8. 第7章:退陣後も「影の最高実力者」として君臨
    1. 「キングメーカー」岸信介
    2. 「昭和の妖怪」の由来
    3. 孫・安倍晋三への期待
  9. 第8章:知られざる岸信介の素顔
    1. 書と漢詩を愛した文化人
    2. ゴルフに情熱を注ぐ
    3. 妻・良子夫人との絆
    4. 「私は戦争に反対だった」
  10. 第9章:平成元年8月7日—90歳の大往生
    1. 最期まで現役
    2. 国民葬で送られる
  11. 第10章:岸信介の遺産—光と影
    1. 日米同盟の基礎を築いた
    2. 「55年体制」の生みの親
    3. 憲法改正という「未完の夢」
    4. 戦争責任という「負の遺産」
  12. 結論:「昭和の妖怪」は、愛国者か、それとも独裁者か

序章:A級戦犯容疑者から総理大臣へ—日本史上最も毀誉褒貶の激しい政治家

「昭和の妖怪」——こう呼ばれた政治家がいた。岸信介。

満州国の経済官僚として「満州の妖怪」「満州の弐キ参スケ」と呼ばれ、東条英機内閣の商工大臣として戦争を遂行し、敗戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された。しかし、不起訴となって釈放され、わずか10年後に総理大臣となった。

日米安保条約の改定を強行し、60年安保闘争という戦後最大の政治闘争を引き起こし、デモ隊に国会を包囲されながらも、最後まで信念を貫いた。そして退陣後も、「影の最高実力者」として政界に君臨し続けた。

孫の安倍晋三に「憲法改正」という夢を託し、90歳で大往生するまで、決して政治への影響力を失わなかった男。その生涯は、まさに昭和という時代そのものだった。

「昭和の妖怪」は、本当に「妖怪」だったのか?それとも、信念を貫いた愛国者だったのか?評価が真っ二つに分かれる、稀代の政治家の生涯を追ってみよう。

第1章:山口の秀才から東大、そして満州へ

長州の名家に生まれて

明治29年(1896年)11月13日、山口県熊毛郡田布施町で佐藤信介(後の岸信介)は生まれた。父・佐藤秀助は造り酒屋を営む実業家。母方の祖父は維新の志士だった。

幼名は信介。しかし13歳の時、母の実家である岸家の養子となり、岸信介と名乗るようになる。弟の佐藤栄作(後の首相)とは、この時から苗字が異なることになった。

幼少期から神童と呼ばれた信介は、常にトップクラスの成績だった。旧制山口中学(現在の山口県立山口高等学校)では、首席で卒業。「信介は将来、必ず偉くなる」——誰もがそう信じた。

東京帝大から農商務省へ

旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)を経て、大正9年(1920年)、東京帝国大学法学部を卒業。成績は全優という完璧な成績だった。

卒業後、農商務省(後の商工省)に入省。24歳でエリート官僚としてのキャリアをスタートさせた。

岸の特徴は、理論と実行力を兼ね備えていたことだった。経済政策の理論を深く理解しながら、それを現実の政策として実行する能力に長けていた。

満州へ—「満州の妖怪」の誕生

昭和11年(1936年)、40歳の岸は満州国に派遣される。ここで、岸の人生が大きく変わることになる。

満州国は、日本が中国東北部に建設した傀儡国家だった。表向きは独立国だが、実質的には日本が支配していた。

岸は満州国の産業部次長、後に総務庁次長として、満州の経済政策を一手に担った。五カ年計画を策定し、統制経済を実施し、満州を「日本の生命線」として開発した。

この手腕が評価され、岸は「満州の妖怪」「満州の弐キ参スケ」(東条英機、星野直樹、岸信介、鮎川義介の四人組)と呼ばれるようになった。

満州での岸の政策は、国家社会主義的な統制経済だった。市場原理ではなく、国家が計画的に経済を運営する。この考え方は、戦時体制に適合していた。

第2章:東条内閣の商工大臣として戦争を遂行

商工大臣就任—戦時経済の司令塔

昭和16年(1941年)10月、東条英機内閣が成立。岸は商工大臣に就任した。45歳だった。

その2ヶ月後、昭和16年12月8日、真珠湾攻撃。太平洋戦争が始まった。

商工大臣として、岸は戦時経済を指揮した。物資の配給統制、軍需工場の増産、労働力の動員——すべてを岸が采配した。

岸の統制経済の手腕は、戦争遂行に不可欠だった。しかし同時に、この役割が、戦後の岸に重い十字架を背負わせることになる。

東条との確執と辞任

しかし、岸は東条英機と次第に対立するようになった。理由は、東条の強権的な政治手法への不満だった。

「東条は、独裁的すぎる。もっと他の意見も聞くべきだ」——岸は、陰で東条を批判した。

昭和18年(1943年)10月、岸は商工大臣を辞任。表向きは「健康上の理由」だったが、実際は東条との確執が原因だった。

この辞任が、後に岸を救うことになる。「岸は東条と対立していた」——この事実が、戦後の岸の立場を微妙に有利にしたのである。

第3章:A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンへ

敗戦と逮捕

昭和20年(1945年)8月15日、日本は敗戦を迎えた。岸は49歳だった。

GHQ(連合国軍総司令部)は、戦争指導者たちを「戦犯」として逮捕し始めた。昭和20年9月15日、岸にも逮捕状が出た。容疑は「A級戦犯」——平和に対する罪である。

岸は巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収監された。東条英機ら、戦争指導者たちと同じ場所だった。

巣鴨プリズンでの日々

巣鴨での岸は、驚くほど冷静だった。「私は、日本のためにやるべきことをやった。何も後悔していない」——岸の言葉である。

獄中で、岸は読書と思索に時間を費やした。マルクス経済学、西洋哲学、日本の歴史——様々な本を読み漁った。

また、獄中で新憲法(日本国憲法)の制定過程を知った。岸は、この新憲法に強い違和感を抱いた。

「これは、占領軍に押し付けられた憲法だ。日本人自身の手で、憲法を作り直さなければならない」——この思いが、岸の生涯のテーマとなる。

不起訴・釈放—奇跡の生還

昭和23年(1948年)12月、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯の判決が下された。東条英機ら7名が死刑、16名が終身刑などの有罪判決を受けた。

しかし、岸は起訴されなかった。不起訴・釈放である。

なぜ岸は起訴されなかったのか?諸説あるが、「岸が東条と対立していた」ことが考慮されたという説が有力である。また、アメリカが冷戦体制の中で、反共産主義の岸を利用したかったという説もある。

昭和23年12月24日、クリスマスイブ。岸は巣鴨プリズンから釈放された。52歳。3年3ヶ月ぶりの自由だった。

岸は、この釈放を「神の恩寵」と受け止めた。「私には、まだやるべきことがある」。

第4章:政界復帰—「逆コース」の旗手として

政界復帰への執念

釈放後の岸には、公職追放令が出されていた。政治活動が禁止されていたのだ。しかし岸は、諦めなかった。

昭和27年(1952年)、サンフランシスコ講和条約発効により、公職追放が解除された。岸は即座に政界復帰を目指した。

昭和28年(1953年)4月、56歳の岸は衆議院議員選挙に山口県から立候補し、初当選。A級戦犯容疑者だった男が、わずか5年後に国会議員になったのである。

「逆コース」の象徴

岸の政界復帰は、「逆コース」の象徴と見られた。「逆コース」とは、占領政策の方向転換のことである。

当初、GHQは日本の民主化・非軍事化を進めていた。しかし、冷戦の激化により、アメリカは日本を反共の砦として再武装させる方針に転換した。

岸は、この「逆コース」を積極的に推進した。再軍備、憲法改正、反共産主義——岸の主張は、保守派の強い支持を得た。

鳩山内閣で幹事長就任

昭和29年(1954年)、鳩山一郎内閣が成立。岸は自由民主党の幹事長に就任した。

幹事長として、岸は党の実権を握った。「人事の岸」と呼ばれるほど、岸の人事采配は巧みだった。

また、昭和30年(1955年)の「保守合同」(自由党と民主党の合併)を実現させたのも、岸の功績である。この保守合同により、自由民主党(自民党)が誕生した。

第5章:遂に総理大臣へ—「安保改定」という使命

昭和32年2月25日、首相就任

昭和32年(1957年)2月25日、岸信介は第56代内閣総理大臣に就任した。60歳。A級戦犯容疑者から、わずか9年での総理就任だった。

就任演説で、岸は明確に述べた。「日米安全保障条約を改定し、日本の自主性を高める。そして、自主憲法の制定を目指す」。

この二つが、岸の政治的使命だった。

旧安保条約の問題点

当時の日米安全保障条約(旧安保条約)は、昭和26年(1951年)にサンフランシスコ講和条約と同時に締結されたものだった。

しかし、この条約には大きな問題があった:

  • アメリカは日本を防衛する義務を負っていない
  • 日本国内の騒乱鎮圧にも米軍が出動できる
  • 条約に期限がなく、一方的にアメリカが駐留し続けられる
  • 極めて不平等な内容だった

岸は、「このまま日本は、アメリカの属国のままだ」と考えた。条約を改定し、対等な同盟関係を築くこと——これが岸の目標だった。

アメリカとの交渉

岸は、アメリカとの交渉に全力を尽くした。昭和32年6月、岸は訪米し、アイゼンハワー大統領と会談。安保改定の必要性を訴えた。

交渉は難航した。アメリカ側は、現状維持を望んでいた。しかし岸は、粘り強く交渉を続けた。

昭和35年(1960年)1月19日、ワシントンで新日米安全保障条約(新安保条約)が調印された。

新条約の主な内容:

  • アメリカの日本防衛義務を明記
  • 日本国内での米軍の行動に、日本政府との事前協議を義務づけ
  • 条約に10年の期限を設定(その後は1年前の通告で破棄可能)

確かに、旧条約よりは改善されていた。しかし、依然として米軍基地は残り、日本の主権は完全ではなかった。

第6章:60年安保闘争—戦後最大の政治闘争

国会周辺を埋め尽くすデモ隊

新安保条約の調印が発表されると、日本中が騒然となった。左派勢力は、「新安保条約は、日本を戦争に巻き込む」と激しく反対した。

昭和35年春から夏にかけて、連日、国会周辺にはデモ隊が押し寄せた。その数、延べ数百万人。戦後最大の大衆運動だった。

「安保反対!」「岸を倒せ!」——シュプレヒコールが国会を包囲した。学生、労働者、知識人——あらゆる階層の人々が、反対運動に参加した。

強行採決—昭和35年5月19日の悲劇

国会での審議も紛糾した。野党は徹底抗戦の構えを見せ、審議は進まなかった。

岸は決断した。強行採決である。

昭和35年5月19日深夜。警官隊を導入して野党議員を排除し、与党だけで新安保条約の承認を強行採決した。

この「5・19」は、戦後民主主義の汚点として、今も語り継がれている。

6月15日—樺美智子さんの死

事態は、さらに悪化した。6月15日、国会構内でのデモ中に、東京大学の学生・樺美智子さんが死亡する事件が発生した。

詳しい状況は今も不明だが、警官隊とデモ隊の衝突の中で、樺さんは圧死したとされる。

この事件により、国民の怒りは頂点に達した。岸内閣打倒の声は、さらに高まった。

アイゼンハワー訪日中止

6月19日、アメリカのアイゼンハワー大統領が訪日する予定だった。しかし、この騒乱の中での訪日は不可能と判断され、訪日は中止された。

岸にとって、これは大きな屈辱だった。新安保条約調印を祝うはずのアイゼンハワー訪日が、国民の反対により中止されたのだから。

6月19日—新安保条約自然承認

6月19日午前0時。衆議院で可決されてから30日が経過し、憲法の規定により、新安保条約は参議院の議決がなくても自然承認された。

岸の目的は、達成された。しかし、その代償はあまりにも大きかった。

6月23日—退陣表明

6月23日、岸は退陣を表明した。「新安保条約の批准書交換を見届けたら、退陣する」。

在任期間は3年5ヶ月。志半ばでの退陣だった。

記者会見で、岸は涙を浮かべながら語った。「私は、日本のためを思ってやった。しかし、国民に理解されなかった。これが私の不徳の致すところです」。

第7章:退陣後も「影の最高実力者」として君臨

「キングメーカー」岸信介

退陣後も、岸の影響力は衰えなかった。むしろ、「影の最高実力者」として、自民党を支配し続けた。

岸は、弟の佐藤栄作を総理大臣にし(昭和39年・1964年)、その後も歴代首相の選出に大きな影響を与えた。

「岸の了承なしには、総理大臣になれない」——こう言われるほど、岸の力は絶大だった。

「昭和の妖怪」の由来

岸が「昭和の妖怪」と呼ばれるようになったのは、この頃からである。

表舞台から退いても、裏で政治を操る。その不気味な存在感が、「妖怪」と呼ばれる所以だった。

岸自身は、この呼び名を気に入っていたようだ。「妖怪で結構。長生きできるということだからね」と笑って語っていた。

孫・安倍晋三への期待

岸には、一人の孫がいた。長女・洋子の息子、安倍晋三である。

岸は、晋三を特に可愛がった。膝の上に乗せて、政治の話をした。「晋三、お前は将来、必ず総理大臣になる。そして、私が成し遂げられなかった憲法改正をやり遂げるのだ」。

この言葉が、晋三の人生を決定づけた。

岸の夢は、晋三に託された。

第8章:知られざる岸信介の素顔

書と漢詩を愛した文化人

岸は、書道と漢詩に優れた才能を持っていた。特に書は達筆で、岸の書を求める人が後を絶たなかった。

また、漢詩を好んで作った。政治の合間に、漢詩をしたためることで、心を落ち着けた。

官僚、政治家としてのイメージが強い岸だが、実は文化人としての一面も持っていたのである。

ゴルフに情熱を注ぐ

岸はゴルフが大好きだった。週末には必ずゴルフに出かけた。80歳を超えても、ゴルフを続けた。

ゴルフ場では、政治の話はしない。純粋にゴルフを楽しむ——これが岸のスタイルだった。

妻・良子夫人との絆

岸の妻・良子夫人は、夫を生涯支え続けた。A級戦犯容疑者として収監された時も、良子は夫を信じて待ち続けた。

岸は、良子への感謝を忘れなかった。「私が今日あるのは、すべて妻のおかげだ」と、晩年まで語っていた。

「私は戦争に反対だった」

晩年の岸は、インタビューでこう語ることがあった。「私は、太平洋戦争には反対だった。しかし、いったん始まった戦争を遂行するのは、国民の義務だと考えた」。

この発言の真偽は不明である。しかし、岸が東条と対立して商工大臣を辞任したのは事実である。

岸の戦争責任をどう考えるか——これは、今も議論が分かれる問題である。

第9章:平成元年8月7日—90歳の大往生

最期まで現役

平成元年(1987年)8月7日、岸信介は東京都内の自宅で老衰のため死去。享年90歳。

最期まで、岸は現役だった。80代になっても、政治への関心を失わず、後進への助言を続けた。

孫の安倍晋三が政治家として活動を始めたのを見届けることができた。「晋三は必ず、総理大臣になる」——岸は確信していた。

国民葬で送られる

岸の葬儀は、国民葬として営まれた。政財界から約4000人が参列した。

弔辞では、岸の功績が称えられた。「戦後日本の礎を築いた政治家」「日米同盟の立役者」。

しかし、同時に、岸への批判も根強く残っていた。「戦犯」「独裁者」「安保闘争の責任者」——評価は、真っ二つに分かれた。

第10章:岸信介の遺産—光と影

日米同盟の基礎を築いた

岸の最大の功績は、日米安全保障条約を改定し、日米同盟の基礎を築いたことである。

旧安保条約の不平等性を是正し、より対等な関係を築いた。この日米同盟は、その後の日本の安全保障の礎となった。

60年安保闘争という大きな犠牲を払ったが、岸の判断は結果的に正しかったという評価もある。

「55年体制」の生みの親

岸は、昭和30年(1955年)の保守合同を実現させ、自由民主党を誕生させた。

この自民党が、その後約40年間、政権を担当し続ける。いわゆる「55年体制」である。

戦後日本の政治体制の基礎を作ったのが、岸だったといえる。

憲法改正という「未完の夢」

しかし、岸の最大の目標だった「憲法改正」は、実現できなかった。

岸は生涯、「占領軍に押し付けられた憲法を、日本人自身の手で作り直す」ことを訴え続けた。しかし、国民の支持は得られなかった。

この夢は、孫の安倍晋三に託された。安倍も生涯、憲法改正を訴え続けたが、やはり実現できなかった。

戦争責任という「負の遺産」

岸の負の遺産は、戦争責任の問題である。

岸は、東条内閣の商工大臣として、戦争を遂行した。A級戦犯容疑者として逮捕されたのも、事実である。

「岸は戦犯だ」「なぜ岸は裁かれなかったのか」——この批判は、今も消えない。

岸自身は、「私は日本のために尽くした」と主張し続けたが、この問題に明確な答えを出すことはなかった。

結論:「昭和の妖怪」は、愛国者か、それとも独裁者か

岸信介という政治家をどう評価するか——これは、極めて難しい問いである。

肯定的評価

  • 日米安保条約を改定し、日米同盟の基礎を築いた
  • 保守合同を実現し、戦後政治の安定をもたらした
  • 満州での経済開発の手腕は卓越していた
  • 信念を貫き、国家のために尽くした

否定的評価

  • 戦争を遂行した戦犯である
  • 60年安保闘争で、民主主義を踏みにじった
  • 独裁的で、強権的な政治手法だった
  • アメリカ追従の外交政策を固定化した

おそらく、岸自身は、こうした評価を承知の上で、自分の信念を貫いたのだろう。

「私は、日本を守るために、やるべきことをやった。後世の評価は、歴史に任せる」——岸なら、そう言うに違いない。

岸が「昭和の妖怪」と呼ばれたのは、その不気味な影響力だけが理由ではない。誰も予測できない行動をとり、誰も真似できない権力を握り、誰も太刀打ちできない執念を持っていた——その全てが、「妖怪」と呼ばれる所以だった。

A級戦犯容疑者から総理大臣へ。巣鴨プリズンから国会へ。この劇的な復活劇は、日本史上、他に例がない。

孫の安倍晋三が、歴代最長政権を築いたのも、岸の遺伝子を受け継いでいるからかもしれない。「決して諦めない」「信念を貫く」「権力を握る」——これらは、岸から安倍へと受け継がれた。

令和の今、日本は再び岐路に立っている。憲法改正、日米同盟、安全保障——岸が取り組んだ課題は、今も未解決のまま残っている。

「昭和の妖怪」岸信介。その影は、令和の日本にも、長く伸びているのである。

本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の会話や内面描写は資料を基にした筆者による再構成であることをご了承ください。また、政治的評価については多様な見解があることを理解した上でお読みください。

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