中国の日本渡航自粛要請:日中関係の新たな局面と経済への影響

世界

はじめに

2025年11月14日、中国外務省が自国民に対して日本への渡航を「当面控えるよう」呼びかけた。これは高市早苗首相の台湾有事に関する国会答弁への対抗措置とみられ、日本の観光業界に大きな衝撃を与えている。本記事では、この問題の現状、経緯、原因、そして今後の課題について整理する。

現状のまとめ

中国側の措置

2025年11月14日夜、中国外務省と在日中国大使館は、中国国民に対して日本への渡航を「当面控えるよう」注意喚起を行った。

通知の内容:

  • 対象: 中国国民全体
  • 期間: 「当面の間」(具体的な期限は明示されず)
  • 性格: 注意喚起・自粛要請(法的拘束力のある渡航禁止ではない)

理由として挙げられた点:

  • 「日本の指導者による台湾に関する露骨な挑発的発言」が日中の人的交流の雰囲気を著しく悪化させた
  • 中国人の身体や生命の安全に「重大なリスク」をもたらした
  • 日本の治安が悪化しており、中国人に対する犯罪も多発している(中国側の主張)

すでに日本に滞在している中国人に対しては:

  • 現地の治安情勢に細心の注意を払う
  • 安全防犯意識を高める
  • 自己防護を強化する

といった呼びかけが行われた。

航空業界の対応

中国の大手航空会社3社(中国国際航空、中国南方航空、中国東方航空)は、11月15日に相次いで以下の措置を発表した。

  • 出発日が11月15日~12月31日の日本路線を対象
  • 航空券の無料変更・無料払い戻しに対応

この措置により、中国から日本への航空便のキャンセルが増加している。

日本側の反応

政府の対応:

木原稔官房長官は11月15日の記者会見で、中国の措置に対して「戦略的互恵関係の構築に向けた取り組みと相いれない」として抗議した。同時に、対話を通じた意思疎通を続ける姿勢を示している。

日本外務省は中国の呉江浩駐日大使を呼び出し、強く抗議した。

観光業界の懸念:

日本の観光業界では、訪日客の減少を懸念する声が広がっている。中国は日本にとって訪日客数が国別で最多であり、インバウンド需要の大きな柱となっているためである。

中国側の追加措置の可能性

中国は高市首相の国会答弁の撤回を求めており、日本の対応次第で対抗措置をエスカレートさせる可能性がある。ただし、現時点では:

  • 査証(ビザ)免除の停止は行われていない
  • 新たな入国規制は導入されていない
  • 法的な渡航禁止や退避命令は出されていない

経緯

11月7日: 高市首相の国会答弁

発端は、11月7日の衆議院予算委員会における高市早苗首相の答弁である。

立憲民主党の岡田克也議員が、台湾有事が日本の集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」に該当するかについて質問した。これに対し高市首相は、「(中国が)戦艦を使って武力の行使も伴うものであれば、どう考えても存立危機事態になり得るケースだ」と答弁した。

「存立危機事態」とは:

2015年成立の安全保障関連法に明記された概念で、「日本と密接な関係にある他国への武力攻撃により日本の存立が脅かされるなどの明白な危険がある場合」と規定されている。この事態に該当すると政府が認定すれば、日本は限定的な集団的自衛権を行使できる。

歴代政権の「曖昧戦略」

これまでの日本政府は、台湾有事が「存立危機事態」に該当するかどうかについて、「全ての情報を総合し、客観的、合理的に判断するため、一概に答えることは困難だ」として明言を避けてきた。

この「戦略的曖昧さ」には二つの理由があった:

  1. 中国に「手の内をさらさない」という安全保障上の理由
  2. 台湾を「核心的利益の中の核心」と主張する習近平政権を無用に刺激しないという外交上の配慮

かつて安倍晋三元首相も、首相退任後には「台湾有事は日本有事」と発言したが、在任中は具体例を示すことには慎重だった。

11月8日: 中国総領事の過激な投稿

高市首相の答弁に対し、中国の薛剣駐大阪総領事が11月8日にX(旧Twitter)に投稿した内容が物議を醸した。

《勝手に突っ込んできたその汚い首は一瞬の躊躇もなく斬ってやるしかない》

この投稿は事実上の「殺害予告」とも受け取れる内容で、日本側から強い抗議を受けた。投稿は現在削除されているが、中国外交官の「戦狼外交」の一例として国際的にも注目を集めた。

11月10日: 高市首相、発言撤回せず

11月10日の衆議院予算委員会で、立憲民主党は高市首相に対して発言の撤回を求めた。しかし高市首相は、「政府の従来の見解に沿っており、特に撤回・取り消しをするつもりはない」と答弁し、発言を撤回しない方針を示した。

11月10日~13日: 中国側の反発強まる

  • 11月10日: 中国外務省の林剣副報道局長が記者会見で「強烈な不満」を表明し、日本側に抗議したと明らかにした
  • 11月13日: 中国外務省が「悪質な発言を撤回しない場合、一切の責任は日本側が負うことになる」「日本が台湾海峡情勢に武力介入すれば侵略行為となる。中国側は必ず正面から痛撃を加える」と強硬な姿勢を示した
  • 11月13日: 中国外務省が金杉憲治駐中国大使を呼び出して厳重に抗議

11月14日: 渡航自粛要請

11月14日夜、中国外務省と在日中国大使館が、中国国民に対して日本への渡航を「当面控えるよう」注意喚起を行った。

11月15日以降: 事態の展開

  • 11月15日: 中国の大手航空会社3社が日本路線の航空券の無料変更・無料払い戻しを発表
  • 11月15日: 木原官房長官が中国の措置に抗議
  • 11月15日: SNS上で「日本行くのやめた」が中国・日本双方でトレンドに

原因の分析

直接的な原因: 高市首相の「率直な物言い」

高市首相は「率直な物言いを好む」スタイルで知られている。経済安保担当相だった2024年の自民党総裁選でも同様の発言をしていた。

首相就任後も、2023年には放送法に関する総務省文書を「怪文書の類い」と断じて物議を醸すなど、従来の政府見解にとらわれない発言をすることがある。

今回の答弁も、「秘書官が用意した資料に頼らず自分の言葉で答える」スタイルの結果だったが、台湾有事という極めて機微な問題について、歴代政権が維持してきた「戦略的曖昧さ」を放棄したことになる。

中国側の政治的意図

中国の反応には、複数の政治的意図が読み取れる。

1. 高市首相への警戒感

中国は習近平国家主席が高市氏の首相就任に祝電を送らなかったことからも分かるように、高市首相に対して強い警戒感を持っている。

高市氏は:

  • 先の大戦への反省とお詫びを盛り込んだ「村山談話」の廃止を明言
  • 靖国神社への参拝を継続
  • 台湾への接近を続けてきた

これらの経緯から、中国は高市氏の歴史認識と台湾問題への姿勢に、過去のどの首相に対してよりも強い警戒心を抱いている。

2. 日米同盟強化への懸念

2025年10月の高市首相就任後、すぐにトランプ大統領(当時、大統領当選者)が来日し、日米は「新・黄金時代」を宣言した。日本は防衛費のGDP2%への増額を前倒しで決定した。

中国から見れば、「対中強硬派の高市政権」と「トランプ政権」が手を組むことは、「戦略的悪夢」である。今回の渡航自粛勧告は、この強力な日米同盟に対する「警告射撃」の意味合いがある。

3. 経済カードの使用

中国は、政治的圧力をかけながらも、経済関係は維持するという「二重戦略」を取っている。

  • ムチ(渡航自粛): 高市政権(政治)に対して、「台湾問題で一線を越えれば、経済的な罰を与える」という警告
  • アメ(ビザ免除延長): わずか11日前の11月3日、中国は日本人のビザ免除措置を2026年末まで延長すると発表していた。これは日本の経済界や一般国民に対して、「政治とは関係なく、ビジネスや交流は続けましょう」というメッセージ

レアアース(希少鉱物)の輸出禁止のような、本気の経済制裁は使わない。それをやれば、日米の「中国離れ(デカップリング)」を決定的にしてしまい、中国経済にとっても自滅行為になるからである。

4. 国内向けのアピール

中国国内では経済の低迷が続いており、習近平政権への不満も高まっている。外部に対して強硬な姿勢を示すことで、国内の求心力を高めるという意図もあると考えられる。

また、日本の対中姿勢が両国の緊張を引き起こしたと国内外にアピールすることで、中国側に非はないという立場を主張している。

なぜ中国は「過剰反応」したのか

一部では「中国は日本や女性首相を見くびっている」という見方もあるが、実際は逆である。

もし本当に日本を軽視しているなら、首相が何を言おうと「無視」するはずである。今回のように外交官が「汚い首は斬ってやる」などと常軌を逸した脅迫までして「過剰反応」するのは、軽視の真逆、つまり「本気で脅威視している(怖がっている)」からである。

高市首相の発言が特に問題視されたのは:

  • 一議員の私見ではなく、首相という立場での発言であること
  • 私的な場ではなく、国会という公式の場での答弁であること
  • 抽象的な意見ではなく、法律(存立危機事態)に基づく具体的な言及であること

これは中国にとって、日本が台湾有事への法的な参戦準備を始めた、という「宣戦布告」にも近いシグナルとして受け取られた。

経済的影響

訪日中国人旅行者の規模

日本政府観光局(JNTO)によると、2025年1~9月の訪日中国人旅行者数は累計約749万人で、国別で首位の市場である。

年間ベースでは:

  • 2025年9月までの1年間の中国の訪日数: 922万751人
  • 2025年7~9月期の中国人一人当たりの日本での旅行消費額: 23万9,162円
  • 両者を掛け合わせると: 8兆8,210億円

これは2024年1年間のインバウンド需要総額の8兆1,257億円を上回る規模である。

経済損失の試算

野村総合研究所のエグゼクティブ・エコノミスト、木内登英氏の試算によると:

過去の事例(2012年尖閣問題)との比較:

2012年9月、日本が尖閣諸島を国有化したことをきっかけに、中国政府は自国民に対して日本への渡航を控えるよう注意喚起を行った。この際、中国の訪日客数は1年間で前年比25.1%減少した。

今回の影響試算:

2012年の尖閣問題の際と同様に、向こう1年の中国からの訪日客数が前年比25.1%減少すると仮定すると:

  • インバウンド消費の1年間の減少額: 2兆2,124億円
  • 実質GDPの押し下げ効果: 0.36%

日本経済への影響:

内閣府の試算によると、日本経済が1年間で成長できるポテンシャルである潜在成長率は、2025年4~6月期で前年同期比+0.6%である。

中国からの訪日客数の減少は、日本の1年分の成長率の半分を超える押し下げ効果を持つことになる。

観光業界への打撃

特に以下の業種・地域に大きな影響が予想される:

  • 宿泊業: ホテル・旅館のキャンセル増加
  • 小売業: 免税店、百貨店、ドラッグストアなど
  • 飲食業: レストラン、居酒屋など
  • 交通業: 航空会社、バス会社、鉄道など
  • 地方観光地: 中国人観光客の多い観光地(北海道、大阪、京都、沖縄など)

株式市場への影響

11月15日以降、日経平均株価は一時5万円を割り込むなど、インバウンド関連銘柄を中心に下落圧力がかかっている。インバウンド急落への懸念が、投資家心理を冷やす要因となっている。

長期的な影響の懸念

中国側の措置が長期化すれば:

  • インバウンド需要全体の縮小
  • 観光業の雇用への影響
  • 地方経済への打撃
  • 日本経済の成長率低下

といった影響が懸念される。

今後の課題

1. 日中関係の修復

最も重要な課題は、日中関係をどのように立て直すかである。

日本側の選択肢:

  • 発言の撤回: 中国が求めている高市首相の答弁の撤回に応じる(ただし、国内政治的に困難)
  • 説明の継続: 発言の意図を丁寧に説明し、中国側の理解を求める
  • 対話の継続: 外交ルートを通じた対話を継続し、事態の沈静化を図る

日本政府は、高市首相の答弁について「台湾に対する立場に変更はない」と説明しているが、中国側は納得していない。

外務省は11月17日から中国を訪問し、対立の沈静化を探る予定である。

中国側の対応:

中国が求めている発言の撤回を日本が行わない場合、さらなる対抗措置をエスカレートさせる可能性がある。一方で、経済関係を完全に断つことは中国にとっても不利益であるため、バランスを取った対応が予想される。

2. 戦略的コミュニケーションの必要性

今回の問題は、日本の首相が国会という公式の場で、安全保障上の機微な事項について、歴代政権が維持してきた「戦略的曖昧さ」を放棄したことが発端である。

政府として検討すべき点:

  • 首相答弁の準備プロセスの見直し
  • 安全保障に関する発言の慎重な調整
  • 「戦略的曖昧さ」の意義の再確認
  • 同盟国(米国)との事前調整

ただし、「率直に物を言う」というスタイル自体は、国内的には支持を得ている面もある。高市内閣の支持率は高く、これが早期解散の可能性を高めているという指摘もある。

3. インバウンド戦略の見直し

今回の問題は、日本のインバウンド戦略が特定の国に過度に依存していることのリスクを浮き彫りにした。

今後の方向性:

  • 市場の分散化: 中国以外の国・地域からの観光客誘致を強化
  • 高付加価値化: 量より質を重視した観光戦略
  • 国内需要の喚起: 国内旅行の促進
  • リスク管理: 地政学的リスクを考慮した事業計画

4. 日中経済関係の再構築

中国は日本にとって最大の貿易相手国の一つであり、経済的な相互依存関係は深い。

検討すべき点:

  • 経済安全保障と経済的利益のバランス
  • サプライチェーンの多様化
  • 政治と経済の分離(政経分離)の可能性と限界
  • 民間交流の維持・促進

5. 台湾問題への対応

台湾問題は、今後も日中関係における最大の火種であり続ける。

日本が直面する課題:

  • 米中対立の狭間での立ち位置の明確化
  • 「一つの中国」政策と台湾との実質的関係のバランス
  • 台湾有事への備えと外交的配慮の両立
  • 地域の平和と安定の維持

6. 国民的な議論の必要性

台湾有事が「存立危機事態」に該当するかどうかは、日本の安全保障の根幹に関わる問題である。

求められること:

  • 冷静で建設的な国民的議論
  • 安全保障と外交のバランスについての理解促進
  • メディアの責任ある報道
  • 政党間の建設的な議論

7. 国際社会との連携

日本は、この問題を日中二国間の問題に矮小化せず、国際社会と連携して対応する必要がある。

連携の方向性:

  • 米国との緊密な協議
  • ASEAN諸国など地域の関係国との対話
  • 台湾海峡の平和と安定に関する国際的な合意形成
  • 航行の自由など国際ルールの維持

おわりに

中国の日本への渡航自粛要請は、高市首相の台湾有事に関する国会答弁をきっかけとした日中関係の新たな緊張を象徴している。

この問題は、単なる外交問題にとどまらず、日本経済、特にインバウンド需要に大きな影響を与える可能性がある。2兆円を超える経済損失の試算は、問題の深刻さを物語っている。

同時に、この問題は日本の安全保障政策のあり方、台湾問題への対応、そして日中関係の将来について、国民的な議論を促す契機ともなっている。

「率直に物を言う」首相と、「面子を重んじる」中国。両者の衝突は、今後の日中関係を占う試金石となるだろう。外交的知恵と戦略的忍耐が求められる局面である。

日本としては、自国の安全保障上の利益を守りつつ、中国との建設的な関係を維持するという難しいバランスを取らなければならない。その鍵は、冷静な対話の継続と、戦略的なコミュニケーションにある。


※本記事は2025年11月17日時点の公開情報に基づいて作成されたものです。

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