「戦後政治の総決算」を掲げた海軍士官:中曽根康弘の1806日

政治家

序章:101歳まで生きた最後の「戦中派」宰相

「戦後政治の総決算」——この力強いスローガンを掲げ、日本の政治に新風を吹き込んだ男がいた。中曽根康弘。海軍士官として終戦を迎え、政治家として101歳まで生き抜いた「昭和・平成・令和」を駆け抜けた巨人である。

レーガン、サッチャーと肩を並べ「ロン・ヤス関係」を築いた外交手腕。国鉄・電電・専売の三公社民営化という大改革。靖国神社公式参拝による外交摩擦。そして、101歳11ヶ月という歴代首相最長寿記録——中曽根康弘の人生は、まさに「激動の日本」そのものだった。

第1章:群馬の材木商から海軍士官へ

上州の気骨を受け継ぐ

大正7年(1918年)5月27日、群馬県高崎市に生まれた。父・又七は材木商を営む実業家。上州(群馬)は「かかあ天下と空っ風」で知られる、気性の激しい土地柄である。

幼少期の中曽根は体が弱く病気がちだったが、その分読書に没頭し、哲学書や歴史書を読み漁った。旧制高崎中学では柔道部に入部。「文武両道」が中曽根の生涯のモットーとなる。

東京帝大から海軍へ

旧制静岡高等学校を経て、昭和16年(1941年)、東京帝国大学法学部を卒業。内務省への入省が内定していたが、中曽根は海軍に志願した。

太平洋戦争開戦の年、多くのエリート学生が徴兵を恐れる中、中曽根は自ら軍隊を選んだ。「国家の危機に、安全な場所にいるわけにはいかない」——23歳の青年の決意だった。

海軍主計少佐として終戦を迎えた中曽根は27歳。敗戦の知らせを聞いた時、「無念さと、同時に安堵感もあった。これで無駄な死が止まる」と感じたという。

焼け跡からの再出発

復員後、中曽根は政治の世界に興味を持つ。「この焼け跡から日本を再建するには、政治の力が必要だ」。昭和22年(1947年)、わずか29歳で衆議院議員選挙に群馬県から立候補し、初当選。戦後最年少の国会議員の誕生だった。

第2章:「青年将校」から実力政治家へ

「青年将校」と呼ばれた若き日

当選直後の中曽根は、国会で「青年将校」と呼ばれた。海軍士官の経歴、29歳という若さ、そして改革への情熱がその理由だった。

中曽根の国会質問は歯に衣着せぬ鋭いもので、政府の腐敗を追及し、日本の自立を訴えた。ただし、演説が長すぎて「中曽根の質問は哲学講義だ」と揶揄されることもあった。

中曽根の政治信念の核にあったのが「憲法改正」だった。現行憲法は占領下で押し付けられたものであり、日本人自らの手で憲法を作り直すべきだという主張である。

閣僚を歴任—実務能力を磨く

昭和34年(1959年)、41歳で科学技術庁長官に就任。以後、運輸大臣、防衛庁長官、通産大臣、行政管理庁長官など、数多くの閣僚ポストを歴任する。

特に防衛庁長官時代(昭和45年)は、自衛隊の整備拡充を進め「自主防衛」を唱え、左派から「タカ派」として警戒された。通産大臣時代(昭和47年)には第一次オイルショックに直面し、エネルギー政策の転換に奔走した。

「風見鶏」というあだ名

中曽根には「風見鶏」というあだ名がついた。政治の風向きを読み、巧みに立ち回る様子を風見鶏に例えたのだ。派閥を渡り歩き、時の権力者と連携しながら、着実に勢力を拡大していった。

批判もあったが、中曽根は意に介さなかった。「政治は結果だ。理想を実現するためには、時に妥協も必要だ」——現実主義者・中曽根の面目躍如である。

第3章:ついに総理大臣へ—「戦後政治の総決算」

昭和57年11月、首相の座へ

昭和57年(1982年)11月27日、中曽根康弘は第71代内閣総理大臣に就任した。64歳。就任会見で、中曽根は高らかに宣言した。「私は、戦後政治の総決算を行います」。

「戦後政治の総決算」とは、憲法問題の見直し、日米同盟の強化、行政改革の断行、教育改革の実施、国際社会での積極的役割を意味していた。

「ロン・ヤス関係」の構築

中曽根外交の最大の特徴は、アメリカのロナルド・レーガン大統領との個人的な親密な関係、いわゆる「ロン・ヤス関係」である。

昭和58年(1983年)1月の訪米で、二人は意気投合。ファーストネームで呼び合い、頻繁に電話で会話を交わした。この個人的な信頼関係が、日米関係を飛躍的に強化した。

しかし、この親米姿勢は物議も醸した。昭和58年1月、中曽根はワシントンで「日本列島を、ソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防衛のとりでである、不沈空母とすべきだ」と述べ、国内で大きな批判を浴びた。

三公社民営化—最大の行政改革

中曽根政権の最大の業績が、国鉄・電電公社・専売公社の民営化だった。特に国鉄民営化は長年の懸案事項で、巨額の赤字を抱え、強大な労働組合が頻繁にストライキを起こしていた。

中曽根はこの「聖域」に切り込んだ。強力な労働組合の反対を押し切り、昭和62年(1987年)4月、国鉄はJRとして民営化された。電電公社はNTTに、専売公社はJTになった。

この「三公社民営化」は戦後最大の構造改革として高く評価されるが、多くの労働者が職を失い、地方ローカル線が廃止されるなど、負の側面もあった。

第4章:靖国参拝と外交摩擦

昭和60年8月15日—公式参拝の決断

昭和60年(1985年)8月15日、終戦記念日。中曽根首相は、靖国神社を公式参拝した。現職首相としては戦後初の「公式参拝」だった。

中曽根の意図は「戦没者を追悼するのは、国家の指導者として当然の責務だ」というものだったが、この参拝は中国・韓国から激しい反発を招いた。「A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、軍国主義の美化だ」として中国は強く抗議し、日中関係は悪化した。

中曽根は翌年以降、靖国参拝を見送らざるを得なくなった。外交的配慮と、国内保守派への配慮の間で、苦しい立場に立たされた。

教科書検定問題

同じく昭和50年代後半、歴史教科書の記述をめぐって日中・日韓関係が緊張した。中曽根政権は、教科書検定基準に「近隣諸国条項」を盛り込み、アジア諸国への配慮を示したが、この対応は国内保守派から「弱腰外交」と批判された。

第5章:知られざる中曽根康弘の素顔

哲学好きの「インテリ政治家」

中曽根は政治家としては珍しい「インテリ」だった。プラトン、カント、ヘーゲルなど西洋哲学に精通し、しばしば演説で哲学的な論を展開した。

ある国会答弁で、中曽根は突然「ヘーゲルは言いました。『世界史は自由の実現の過程である』と。我が国もまた…」と語り始め、議場を唖然とさせた。側近は「総理の演説は哲学の授業みたいで、何を言いたいのか分からなくなることもありました」と苦笑する。

朝のジョギングと禅

中曽根は健康管理に極めて熱心だった。毎朝5時に起床し、皇居周辺をジョギング。その後、冷水シャワーを浴びる。この習慣を、90歳を超えても続けた。

また禅にも傾倒し、定期的に座禅を組んだ。「座禅をすると、心が落ち着き、物事が見えてくる」と語っていた。この「文武両道」「心身鍛錬」の姿勢が、101歳まで現役を貫く原動力となった。

「オレがオレが」の自信家

中曽根は非常に自信家だった。ある閣議で、閣僚が政策案を説明すると、中曽根は「それは違う。私の考えはこうだ」と、自説を30分も述べ続けたという。

「オレがオレが」——側近たちは陰でこう呼んでいた。しかし、その自信が大胆な改革を可能にしたのも事実である。

第6章:伝説のエピソード集

レーガンとのゴルフ外交

「ロン・ヤス関係」を象徴するのが、二人のゴルフ外交である。ある時、レーガンがバンカーにボールを打ち込むと、シークレットサービスが駆け寄って砂をかき分け始めた。

中曽根:「ロン、それはズルだよ」 レーガン:「ヤス、これが大統領の特権さ」

二人は大笑いした。この和やかな雰囲気が日米関係を強化した。

「増税なき財政再建」の公約破り

中曽根は「増税なき財政再建」を公約に掲げていたが、昭和63年(1988年)、退陣直前に消費税導入を決断する。明らかな公約違反だった。

中曽根の弁明:「私は、間接税の導入とは言ったが、消費税とは言っていない」

この詭弁に国民は呆れたが、中曽根は「将来の日本のためには消費税が必要だ」と信念を曲げなかった。結果的に、この決断は正しかったといえる。

101歳11ヶ月—歴代首相最長寿

平成15年(2003年)、85歳で政界を引退したが、その後も「大勲位」として影響力を保ち続けた。100歳を超えても時事問題について積極的に発言し続けた。

令和元年(2019年)11月29日、中曽根康弘は東京都内の病院で老衰のため死去。享年101歳11ヶ月。歴代首相の中で最長寿記録である。最期まで意識は明瞭で、家族と会話を交わし、静かに息を引き取った。

結論:海軍士官から「大勲位」へ—昭和を駆け抜けた巨人

中曽根康弘という政治家を一言で表すなら、「行動する哲学者」だろう。哲学を愛し、理想を語りながらも、現実の政治では果断に行動した。この二面性こそが、中曽根の魅力であり、強さだった。

中曽根は「戦後」を終わらせようとした。「もう戦後ではない。新しい時代を切り開こう」——この呼びかけは、当時の日本人の心に響いた。三公社民営化は戦後の官僚主導体制からの脱却を意味し、「ロン・ヤス関係」は日本がアメリカと対等なパートナーになったことを示した。

すべてが完璧に実現したわけではない。憲法改正は実現せず、多くの課題は未解決のまま残された。しかし、中曽根が示した方向性は、その後の日本政治の基調となった。

「風見鶏」と批判されながらも、中曽根は自分の信念を貫いた。憲法改正、自主防衛、歴史認識——これらの主張は最期まで変わらなかった。ただ、実現の方法については柔軟に対応した。「理想は高く、方法は柔軟に」——これが中曽根のモットーだった。

海軍士官として戦争を経験し、政治家として平和の礎を築き、101歳まで生き抜いた。中曽根康弘の人生は、まさに「昭和の生き証人」だった。

「私の人生に悔いはない」——中曽根が晩年、繰り返し語った言葉である。大正、昭和、平成、令和と4つの時代を駆け抜け、日本の変遷を見続けた巨人。その足跡は、日本の歴史に深く刻まれている。

「戦後政治の総決算」という言葉は、今も日本政治のキーワードとして語り継がれている。中曽根が撒いた種は、令和の時代にも芽吹き続けているのである。


本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の逸話や評価については諸説あることをご了承ください。

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