2025年11月4日、アメリカ最大の都市ニューヨークで歴史的な選挙結果が生まれました。民主党候補のゾーラン・マムダニ氏が、ニューヨーク市長選挙で当選を果たしたのです。34歳という若さで、同市史上初のイスラム教徒、初の南アジア系、そして過去100年以上で最年少の市長となります。わずか1年前には「ほぼ無名」だった州議会議員が、なぜ世界金融の中心地ニューヨークのリーダーに選ばれたのか。その経緯と勝因を探ります。
ゾーラン・マムダニとはどんな人物か
マムダニ氏は1991年10月18日、東アフリカのウガンダの首都カンパラで、インド系の家庭に生まれました。父マフムード・マムダニ氏はコロンビア大学の政治学教授で植民地主義研究の権威、母ミーラ・ナイール氏は国際的に著名な映画監督です。母のミーラ氏は映画「モンスーン・ウェディング」で2001年のヴェネツィア国際映画祭最高賞である金獅子賞を受賞しており、まさに知性と芸術が交わる環境で育ちました。
7歳のときに家族とともにニューヨークに移住したマムダニ氏は、名門ブロンクス科学高等学校を経て、メイン州のボウディン大学でアフリカ研究の学位を取得しました。大学時代には「パレスチナの正義のための学生の会」支部を共同設立するなど、早くから社会正義への関心を示していました。
興味深いことに、マムダニ氏は「ヤング・カルダモン」や「ミスター・カルダモン」という名前でラッパーとしても活動していた時期があります。音楽を通じて自己表現を行っていた青年期の経験は、後のSNSを活用した選挙戦略にも生かされることになります。
大学卒業後、マムダニ氏はクイーンズで住宅差し押さえ防止カウンセラーとして働き、低所得層や非白人住民が立ち退きを回避できるよう支援しました。この現場での経験が、政治家を目指すきっかけとなったと本人は語っています。2018年にアメリカ市民権を取得し、2020年にニューヨーク州議会議員選挙に初当選。その後2022年と2024年に再選を果たし、クイーンズのアストリア地区を代表する議員として活動してきました。
無名からの大逆転 予備選での躍進
2024年10月、マムダニ氏はニューヨーク市長選への立候補を表明しました。当時、民主党予備選の大本命は、2021年にセクシャルハラスメント疑惑で州知事を辞任したアンドリュー・クオモ前知事でした。知名度、資金力、そして政治的ネットワークのすべてでクオモ氏が圧倒的に優位に立っており、マムダニ氏の支持率は1%にも満たない状況でした。
しかし、マムダニ氏は伝統的な選挙戦略を取りませんでした。彼が選んだのは、SNSを駆使した草の根運動と、若者や労働者層への直接的な訴えかけでした。InstagramやTikTokで政策を語り、街を歩きながら市民と対話する姿を投稿する手法は、政治的なスローガンではなく等身大の生活感を伝え、多くの若者の心をつかみました。
2025年6月24日に実施された民主党予備選では、驚くべき結果が生まれました。開票率93%の時点でマムダニ氏が44%、クオモ氏が36%と、マムダニ氏が8ポイントもの差をつけたのです。ニューヨーク市の予備選は順位選択投票制度を採用しており、最終的な集計が7月1日に発表されましたが、クオモ氏はすでに選挙当日の夜に敗北を認めていました。ニューヨーク大学の政治学教授パトリック・イーガン氏は「誰もがこの予想外の勝利に驚愕している」とコメントしました。
本選挙での勝利 三つ巴の戦い
予備選で敗れたクオモ氏は、無所属候補として本選挙への出馬を決意しました。また、共和党候補として自警団「ガーディアン・エンジェルス」創設者のカーティス・スリワ氏も出馬。一方、現職のエリック・アダムズ市長は支持率低迷とスキャンダルに見舞われ、9月に選挙戦からの撤退を表明しました。
本選挙でもマムダニ氏の勢いは止まりませんでした。彼は選挙戦最終盤、驚異的なエネルギーで市内を駆け巡りました。ブルックリンの6つのナイトクラブをはしごし、教会礼拝に出席し、ニューヨークシティマラソンの応援に現れ、ニックスの試合を最上階席で観戦する姿がSNSで次々と拡散されました。「眠らない街」ニューヨークで、候補者自身も眠らずに活動する姿は、多くの市民に強い印象を与えました。
選挙戦ではトランプ大統領も介入し、投票日前夜にクオモ氏への支持を表明するとともに、「マムダニ氏が当選すれば連邦資金を削減する」と警告を発しました。しかし、この圧力はむしろマムダニ支持層の結束を強める結果となりました。
11月4日の投開票の結果、開票率98%の時点でマムダニ氏が50.4%、クオモ氏が41.6%、スリワ氏が7.1%という結果となり、マムダニ氏の歴史的勝利が確定しました。投票者数は200万人を超え、1969年以来最高の投票率を記録しました。特に若年層の投票率向上が顕著で、45歳未満の有権者はマムダニ氏を43ポイント差で支持したというNBCニュースの出口調査結果が出ています。
勝利の要因 生活苦への共感と明確な政策
マムダニ氏勝利の最大の要因は、ニューヨーク市民が直面する生活苦への共感と、それに対する明確な解決策を提示したことにあります。ニューヨーク市内のワンベッドルームアパートの家賃中央値は約3,400ドル(約52万円)に達しており、5年間で24%も上昇していました。出口調査では、回答者の4分の3が住宅費を「主要な問題」と答えており、生活費の高騰が最大の争点となっていました。
マムダニ氏が掲げた主な政策は以下の通りです。家賃安定化物件(100万戸以上が対象)の賃料凍結、市営バスの完全無料化、企業や富裕層への課税による無償保育制度の拡充、市営食料品店の設置による生活必需品価格の抑制、そして2030年までに最低賃金を時給30ドルに引き上げることです。
これらの政策の財源として、年収100万ドル以上の富裕層と大企業への2%の増税を提案しました。「これは富を奪う戦いではなく、人々の生活を取り戻すための戦いだ」という彼の言葉は、格差に苦しむ多くの市民の共感を呼びました。
第二の勝因は、圧倒的なSNS戦略と草の根運動です。マムダニ氏の選挙運動には約8万人ものボランティアが参加したとされています。彼の陣営は伝統的なテレビ広告や大口献金に頼るのではなく、小口献金者の広範なネットワークを構築しました。実際、マムダニ氏とクオモ氏の資金調達額は同程度でしたが、マムダニ氏の献金者ベースはクオモ氏よりもはるかに大規模でした。
また、マムダニ氏はウルドゥー語やスペイン語での動画も投稿するなど、ニューヨークの多様な移民コミュニティに直接語りかけました。出口調査によると、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系など、すべての人種カテゴリーでマムダニ氏が支持を得たことが示されています。
第三の勝因は、変革を求める有権者の心理を捉えたことです。2024年のトランプ再選後、多くの民主党支持者が党の既成路線に幻滅を感じていました。コロラド大学デンバー校のセス・マスケット教授は「全米の民主党支持者が党指導部に不満を持ち、異なる声、特に若い世代のリーダーを求めている」と分析しています。マムダニ氏の「民主社会主義者」としての明確な立場は、こうした「変革への渇望」を体現するものでした。
直面する課題と今後の展望
マムダニ氏は2026年1月1日に第111代ニューヨーク市長として就任します。しかし、その前途は決して平坦ではありません。
最大の課題は、公約の実現です。家賃凍結や富裕層増税などの主要政策の多くは、ニューヨーク州知事キャシー・ホークル氏と州議会の承認が必要です。また、バスの無料化や無償保育の拡充には膨大な予算が必要であり、その財源確保が問われます。世界金融の中心地ウォール街からは、富裕層増税に対する警戒感が既に表明されています。
第二に、トランプ政権との対立です。トランプ大統領はマムダニ氏を「共産主義者」と批判し、連邦資金の削減を示唆しています。実際にニューヨーク市への連邦補助金が削減されれば、市の財政運営に深刻な影響が出る可能性があります。マムダニ氏は「対立ではなく、対話から始める」と述べていますが、イデオロギー的に正反対の両者の関係は注視されます。
第三に、イスラエル問題への対応です。マムダニ氏はハマスによる2023年10月7日のテロ攻撃を非難する一方、イスラエルのガザでの軍事作戦を「ジェノサイド」と批判してきました。また、「イスラエルがユダヤ人国家として存在する権利」を明確に認めない立場を取っています。ニューヨーク市には大規模なユダヤ系コミュニティがあり、選挙前の世論調査ではユダヤ系有権者の約55%がクオモ氏を支持していました。ただし、44歳以下のユダヤ系有権者の67%がマムダニ氏支持に回ったというデータもあり、世代間の意識差が表れています。
第四に、行政経験の不足です。州議会議員としての経験はあるものの、850万人が住む大都市の巨大な行政機構を運営した経験はありません。公共安全、教育、インフラ整備など、市長として対処すべき課題は山積しています。
一方で、マムダニ氏の勝利は全米の政治に大きな影響を与える可能性があります。彼の選挙戦略は、2018年にアレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員がベテラン議員を破って以来、民主党進歩派にとって最大の成果とされています。SNSを活用した直接的なコミュニケーション、小口献金による草の根運動、そして生活費高騰という具体的な問題への焦点化という彼の手法は、他の都市でも模倣される可能性が高いでしょう。
勝利演説でマムダニ氏は、20世紀初頭のアメリカ社会主義者ユージン・デブスの言葉を引用しました。「私は人類のためのより良い日の夜明けを見ることができる」。若き市長が掲げる「手の届く都市」というビジョンが現実のものとなるのか、世界が注目しています。

