「早稲田の創設者は片足の首相だった」:大隈重信の破天荒人生

政治家

序章:爆弾テロで片足を失っても、125歳まで生きると豪語した男

「私は125歳まで生きる!」——こう豪語した政治家がいた。大隈重信。実際には83歳で亡くなったが、それでも明治時代としては驚異的な長寿である。

しかも、この男は右足を爆弾テロで失っている。普通なら政治生命が終わってもおかしくない。しかし大隈は、義足をつけて颯爽と政界に復帰し、二度も総理大臣を務めた。

早稲田大学の創設者として知られる大隈だが、その人生は波瀾万丈だった。佐賀藩の下級武士から明治政府の中枢へ。「明治十四年の政変」で失脚し、早稲田を創設。爆弾テロに遭い、それでも総理大臣に返り咲く。

「大隈らしさ」とは何か?それは、どんな逆境でも決して諦めない楽天主義と、既成概念にとらわれない自由な発想だった。この破天荒な政治家の生涯を、ユニークなエピソードとともに追ってみよう。

第1章:佐賀藩の下級武士から英語の天才へ

肥前国の片田舎で

天保9年(1838年)2月16日、肥前国佐賀郡(現在の佐賀県佐賀市)で大隈重信は生まれた。父は佐賀藩の下級武士・大隈信保。決して裕福な家ではなかったが、教育熱心な家庭だった。

幼少期の重信は、やんちゃで好奇心旺盛な少年だった。じっとしていることができず、いつも外を駆け回っていた。「重信は将来、大物になるか、大馬鹿者になるかのどちらかだ」と近所の人々は噂した。

佐賀藩の「蘭学寮」で開花

佐賀藩は、当時としては進歩的な藩だった。第10代藩主・鍋島直正は西洋技術の導入に熱心で、「蘭学寮」という教育機関を設立していた。

16歳の重信は、この蘭学寮に入学する。ここで、オランダ語と英語を学んだ。重信の語学の才能は抜群で、特に英語の上達は目覚ましかった。

当時の日本で、英語を流暢に話せる人間はほとんどいなかった。この語学力が、後の重信の人生を大きく左右することになる。

幕末の動乱と佐賀藩士

幕末の動乱期、重信は佐賀藩士として、藩の近代化に尽力した。特に、西洋式の軍事訓練や、大砲の製造などに関わった。

慶応3年(1867年)、大政奉還。翌年、戊辰戦争が勃発。佐賀藩は新政府側につき、重信も長崎で外国との交渉にあたった。この時の英語力と交渉能力が、新政府の目に留まる。

第2章:明治政府の俊英として

30歳で参与に抜擢

明治元年(1868年)、30歳の大隈は明治政府の参与に任命された。異例の抜擢である。外国事務局判事として、外交交渉を担当した。

大隈の特徴は、大胆な改革案をどんどん提案することだった。「こうすべきだ」と思ったら、上司だろうが誰だろうが、遠慮なく意見を言う。この積極性が評価された。

明治2年(1869年)、大蔵大輔(事実上の大蔵大臣)に就任。32歳という若さでの大抜擢だった。同時に、外務卿も兼任。財政と外交という、国家の根幹を担うことになった。

財政改革の断行

大蔵大輔として、大隈は大胆な財政改革に着手した。

鉄道建設の推進:大隈は、鉄道こそが近代化の鍵だと確信していた。明治5年(1872年)、新橋-横浜間に日本初の鉄道が開通。これは大隈の尽力によるものだった。

貨幣制度の改革:円・銭・厘という新しい貨幣単位を導入。それまでの複雑な貨幣制度を、シンプルで分かりやすいものに変えた。

殖産興業の推進:西洋の技術を導入し、産業を育成する。官営工場を次々と設立し、日本の近代化を急いだ。

大隈の改革は、時にやりすぎと批判されることもあった。「大隈は金を使いすぎる」「もっと慎重にやるべきだ」。しかし大隈は、「今やらなければ、日本は欧米に追いつけない」と信念を曲げなかった。

条約改正交渉での活躍

外務卿として、大隈は不平等条約の改正にも取り組んだ。幕末に結ばれた日米修好通商条約などは、日本に不利な内容だった。関税自主権がなく、治外法権を認めるという屈辱的なものである。

大隈は、英語力を活かして欧米列強と直接交渉した。「日本はもはや後進国ではない。対等な条約を結ぶべきだ」——大隈の堂々とした態度は、欧米の外交官を驚かせた。

第3章:「明治十四年の政変」と失脚

伊藤博文との対立

明治政府内で、大隈の影響力は増していった。しかし、それは同時に、政敵も増やすことになった。特に、伊藤博文との対立は深刻だった。

対立の焦点は、「国会開設の時期」だった。大隈は「今すぐにでも国会を開くべきだ」と主張した。一方、伊藤は「まだ時期尚早だ。10年後でいい」と慎重論を唱えた。

さらに、大隈は「イギリス型の議院内閣制」を主張したのに対し、伊藤は「プロシア型の立憲君主制」を支持した。この対立は、単なる政策論争を超えて、権力闘争の様相を呈していった。

明治14年(1881年)の政変

明治14年10月、事件が起きる。いわゆる「明治十四年の政変」である。

伊藤博文ら薩長出身の政治家たちは、大隈を政府から追放することを決定。大隈は参議を罷免され、政府から追い出された。43歳での失脚だった。

大隈にとって、これは大きな衝撃だった。政治生命が終わったと思われた。しかし、大隈は決して諦めなかった。「政府から追い出されたなら、民間で力をつければいい」。

この発想の転換が、大隈の真骨頂だった。

第4章:早稲田大学の創設—教育による国づくり

「東京専門学校」の開校

明治15年(1882年)10月21日、大隈は東京・早稲田に「東京専門学校」を開校した。これが、後の早稲田大学である。

大隈の教育理念は明確だった。「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」——これが、早稲田の建学の精神である。

特に重視したのが、「在野の精神」だった。政府に頼らず、民間の力で国を良くする。そのための人材を育てる。これが大隈の狙いだった。

小野梓との出会い

早稲田創設にあたって、大隈を支えたのが小野梓である。小野は土佐藩出身の自由民権運動家で、大隈の理念に共鳴した。

二人は「学問を通じて、日本を変える」という夢を共有した。小野は早稲田の教育方針を策定し、大隈は資金調達と対外的な交渉を担当した。この名コンビが、早稲田の基礎を築いた。

庶民のための大学

早稲田の特徴は、「庶民でも学べる大学」だったことである。当時の帝国大学(東京大学)は、エリートのための学校だった。学費も高く、庶民には手が届かない。

大隈は、「金がなくても、やる気があれば学べる大学を作る」と決意した。学費を安く抑え、夜間部も設置した。働きながら学べる環境を整えたのだ。

この方針により、早稲田には全国から向学心に燃える若者が集まった。彼らの多くが、後に各界で活躍することになる。

第5章:爆弾テロで片足を失う

外務大臣として条約改正に挑む

明治21年(1888年)、大隈は再び政界に復帰。第一次伊藤博文内閣で外務大臣に就任した。50歳だった。

外務大臣として、大隈は条約改正に全力を尽くした。外国人判事の任用など、譲歩も含む案を提示。なんとか欧米列強との交渉を進めようとした。

しかし、この姿勢が国内の強硬派を激怒させた。「大隈は売国奴だ」「外国に譲歩しすぎている」——批判の声が高まった。

明治22年10月18日—凶弾

明治22年(1889年)10月18日。運命の日が訪れる。

外務省からの帰途、大隈が乗った馬車に、一人の男が爆弾を投げつけた。犯人は国家主義者の来島恒喜である。

爆弾は大隈の足元で爆発した。大隈の右足は粉々に砕け散り、御者も重傷を負った。大隈は意識を失い、病院に運び込まれた。

「足なんか、なくても平気だ」

右足は切断せざるを得なかった。51歳の大隈は、片足を失ったのである。

普通なら、これで政治生命は終わりだろう。しかし、大隈は違った。病床で、大隈はこう言ったという。

「足なんか、なくても平気だ。頭と心があれば、まだまだやれる」

驚くべき楽天主義である。この前向きな姿勢が、大隈の最大の魅力だった。

義足で颯爽と復帰

数ヶ月の療養後、大隈は義足をつけて公の場に現れた。その堂々とした姿に、人々は驚嘆した。

「大隈先生は、片足を失っても、少しも変わっていない!」——むしろ、この事件が大隈の人気を高めたとも言われる。逆境に負けない姿勢が、国民の心を掴んだのだ。

大隈自身は、義足について冗談めかして語ることが多かった。「この義足は便利だよ。疲れを知らないからね」。この明るさが、周囲を和ませた。

第6章:二度の総理大臣就任

第一次大隈内閣(明治31年・1898年)

明治31年(1898年)6月30日、大隈重信は第8代内閣総理大臣に就任した。60歳。片足を失ってから9年後のことである。

しかし、この第一次大隈内閣は、わずか4ヶ月で終わった。いわゆる「隈板内閣」(大隈重信と板垣退助の連立内閣)は、内部対立により崩壊したのだ。

大隈にとって、この短命内閣は不本意だった。「やりたいことが、何もできなかった」——大隈は悔しがった。

第二次大隈内閣(大正3年・1914年)

大正3年(1914年)4月16日、大隈は再び総理大臣に就任した。76歳という高齢での首相就任である。

この第二次大隈内閣は、2年2ヶ月続いた。この間、第一次世界大戦が勃発し、大隈は重要な決断を迫られることになる。

第一次世界大戦への参戦

大正3年7月、第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパは戦火に包まれた。

大隈内閣は、日英同盟を理由にドイツに宣戦布告。中国の青島(チンタオ)を攻略し、ドイツ領南洋諸島を占領した。

この参戦により、日本は戦勝国となり、国際的地位を高めた。また、ヨーロッパ諸国が戦争で疲弊する間、日本は輸出を伸ばし、経済的にも大きく発展した。

大隈の決断は、結果的に日本に大きな利益をもたらしたのである。

「対華二十一ヶ条要求」の失策

しかし、大隈内閣には大きな失策もあった。大正4年(1915年)、中国に対して「二十一ヶ条の要求」を突きつけたのである。

これは、中国での日本の権益拡大を求める、極めて強硬な要求だった。中国国内では激しい反日運動が起き、国際的にも批判を浴びた。

大隈自身は、「中国の近代化を助けるためだ」と主張したが、中国側は「侵略だ」と受け止めた。この問題は、後の日中関係に暗い影を落とすことになる。

第7章:知られざる大隈重信の素顔

「125歳まで生きる」と豪語

大隈は、健康法に非常に熱心だった。毎朝の散歩、規則正しい生活、節度ある食事——これらを徹底して実践した。

そして、よく言っていたのが「私は125歳まで生きる!」という言葉である。根拠は?「人間の寿命は、成長期の5倍だ。人間は25歳まで成長するから、125歳まで生きられる」という、独自の理論だった。

科学的根拠は怪しいが、この前向きな姿勢が、大隈の長寿につながったのかもしれない。

綾子夫人との絆

大隈の妻・綾子は、夫を生涯支え続けた。特に、爆弾テロで大隈が片足を失った時、綾子の献身的な看護が大隈を救った。

綾子は、大隈が義足に慣れるまで、毎日付き添って歩行訓練を手伝った。「あなたは必ず歩けるようになります。私が保証します」——綾子の励ましが、大隈を立ち直らせた。

大隈は晩年、「私の成功は、すべて綾子のおかげだ」と語っている。理想的な夫婦関係だった。

「大隈邸の晩餐会」

大隈の東京・早稲田の自宅では、頻繁に晩餐会が開かれた。政財界の要人、学者、文化人など、様々な人々が集まった。

大隈は、こうした社交の場を楽しんだ。片足を失った後も、義足で颯爽と歩き回り、客をもてなした。その明るさと話術で、場を盛り上げた。

「大隈先生の晩餐会に招かれるのは、光栄なことだ」——当時の社交界で、こう言われていた。

演説の名手

大隈は、演説の名手として知られていた。声は大きく、身振り手振りを交えて、聴衆を魅了した。

特に、早稲田大学の卒業式での演説は有名だった。「諸君は、これから社会に出て、様々な困難に直面するだろう。しかし、決して諦めてはいけない。私は片足を失った。しかし、それでも総理大臣になれた。諸君にできないことはない!」

この言葉に、学生たちは感動し、涙を流したという。

第8章:大正11年1月10日—大往生

83歳の死

大正11年(1922年)1月10日早朝、大隈重信は東京の自宅で息を引き取った。享年83歳。死因は胆石症だった。

125歳まで生きるという豪語は果たせなかったが、明治時代としては驚異的な長寿だった。しかも、片足を失った体で、76歳まで総理大臣を務めたのだから、まさに「超人」である。

国民葬で送られる

大隈の葬儀は、国民葬として盛大に営まれた。早稲田大学には、30万人もの弔問客が訪れたという。

「大隈先生のような政治家は、もう現れないだろう」——多くの人々が、そう感じた。波瀾万丈の人生を生き抜いた、稀代の政治家の最期だった。

早稲田大学への遺産

大隈が残した最大の遺産は、早稲田大学である。大隈の死後、早稲田はますます発展し、日本を代表する私立大学となった。

早稲田大学のキャンパスには、今も大隈の銅像が立っている。片足を失った体で、しかし堂々と立つ姿。その像は、「逆境に負けるな」という、大隈のメッセージを今に伝えている。

第9章:大隈重信が残したもの

「在野の精神」という遺産

大隈の最大の功績は、「在野の精神」を体現したことだろう。政府から追い出されても、テロで片足を失っても、決して諦めず、民間の立場から国づくりに貢献した。

この「在野の精神」は、早稲田大学に受け継がれ、多くの卒業生を通じて、日本社会に広がっていった。

楽天主義という生き方

大隈のもう一つの遺産は、その楽天主義である。どんな逆境でも、「なんとかなる」「まだまだやれる」と前向きに考える。

この姿勢は、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えている。困難に直面した時、「大隈ならどうするか」と考えることは、有益だろう。

教育への情熱

大隈は、教育こそが国を強くすると信じていた。だからこそ、失脚後すぐに早稲田を創設したのである。

「教育は百年の計」——大隈の言葉である。目先の利益ではなく、100年先を見据えて、人材を育てる。この長期的視野が、大隈の偉大さを示している。

結論:片足でも、125歳の夢を見た男

大隈重信という人物を一言で表すなら、「不屈の楽天家」だろう。

佐賀藩の下級武士から、明治政府の中枢へ。失脚して早稲田を創設し、テロで片足を失っても総理大臣に返り咲く。この波瀾万丈の人生を、大隈は常に前向きに、楽しんで生きた。

「125歳まで生きる」という荒唐無稽な目標。普通なら笑われるだろう。しかし大隈は、本気でそう信じていた。そして、その楽天主義が、大隈を83歳まで生かし、数々の困難を乗り越えさせたのである。

片足を失った時、大隈は51歳だった。普通なら、「もう人生は終わりだ」と絶望してもおかしくない。しかし大隈は、その25年後、76歳で総理大臣になった。義足をつけて。

この事実が、何を物語っているか。それは、「人生、何歳からでもやり直せる」「逆境は、新しいチャンスだ」ということである。

早稲田大学のキャンパスに立つ大隈の銅像は、今も学生たちに語りかけている。

「諸君、決して諦めるな。私は片足を失った。しかし、それでも総理大臣になれた。諸君にできないことはない!」

大隈重信——片足でも、125歳の夢を見続けた男。その生き方は、時代を超えて、私たちに勇気を与え続けている。


本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の逸話や評価については諸説あることをご了承ください。

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