序章:組閣寸前で追放された男が、日本政治の礎を築くまで
昭和21年(1946年)5月、一人の男が燕尾服を着て、皇居へ向かおうとしていた。戦後初の総選挙で勝利を収め、新しい日本の初代首相となる瞬間。まさにその時、GHQから一枚の紙が届いた。「公職追放」——この二文字が、鳩山一郎の運命を変えた。
しかし、この挫折は始まりに過ぎなかった。脳梗塞で倒れ、半身不随になりながらも政界に復帰。盟友だったはずの吉田茂と激しく対立し、ついに71歳で総理大臣の座を掴んだ。
保守合同により自由民主党を誕生させ、初代総裁として55年体制の礎を築いた。そして、念願のソ連との国交回復を成し遂げ、花道を飾った。
「友愛」という理念を生涯貫き、孫の由紀夫にまで受け継がせた男。幾度となく挫折を味わいながらも、そのたびに不死鳥のように蘇った、稀代の政治家の生涯を追ってみよう。
第1章:東京の名門に生まれて
父・鳩山和夫という巨人
明治16年(1883年)1月1日、鳩山一郎は東京府牛込区(現在の新宿区)で生まれた。父・鳩山和夫は、日本を代表する知識人だった。
イェール大学で法学博士号を取得した和夫は、弁護士として活躍しながら、東京帝国大学教授、早稲田大学総長、衆議院議長と、多彩な経歴を持っていた。母・春子は、東京女子師範学校の英語教師で、共立女子職業学校(現在の共立女子大学)を創立した教育者だった。
まさに明治のエリート一家。一郎は、この環境の中で育った。
高等師範学校附属小学校から東大へ
一郎は、高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)に入学。ここは当時から優秀な子弟が集まる名門校だった。
第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に進学。明治40年(1907年)に卒業し、弁護士となった。成績優秀で、将来を嘱望される若者だった。
卒業後は、父の弁護士事務所に入り、弁護士として活動を始める。父の背中を見て育った一郎にとって、これは自然な選択だった。
父の急死と政界入り
明治44年(1911年)、一郎が28歳の時、父・和夫が急死した。一郎にとって、突然の出来事だった。
和夫は東京市会議員と衆議院議員を兼任していた。その地盤を引き継ぐ形で、一郎は東京市会議員に当選。政治家としての第一歩を踏み出した。
大正4年(1915年)、32歳で衆議院議員に初当選。立憲政友会に所属した。以後、昭和34年(1959年)に亡くなるまで、公職追放の5年間を除いて、44年間にわたり国会議員を務めることになる。
第2章:政友会の実力者として
田中義一内閣の書記官長
大正時代、一郎は立憲政友会の中で頭角を現していった。温厚な性格と、父譲りの知性で、党内での評価を高めた。
昭和2年(1927年)、田中義一内閣が成立すると、一郎は内閣書記官長に抜擢された。44歳。若手ホープとして、期待されていた。
しかし、この役職が後に一郎に災いをもたらすことになる。田中内閣は治安維持法の改正を行い、最高刑を死刑とした。戦後、GHQはこの点を問題視することになる。
文部大臣として——滝川事件
昭和6年(1931年)、犬養毅内閣で一郎は文部大臣に就任。以後、斎藤実内閣でも留任し、約2年間文相を務めた。
しかし、この時期に「滝川事件」が発生する。昭和8年(1933年)、京都帝国大学の滝川幸辰教授の刑法学説が「危険思想」として問題視された。
一郎は、滝川教授の罷免を京大総長に要求。拒否されると、文官分限令により一方的に滝川を休職処分とした。
この強権的な対応は、学問の自由を踏みにじるものとして批判された。そして、この事件も戦後の公職追放の理由の一つとなった。
統帥権干犯問題——軍部台頭への道を開く
一郎の政治生涯で最大の「失策」と言われるのが、統帥権干犯問題である。
昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮条約が結ばれた。浜口雄幸内閣(民政党)は、財政緊縮と国際協調の立場から、この条約を締結した。
これに対し、野党の政友会の犬養毅と鳩山一郎は、「軍令部の反対を無視して条約を結んだのは、天皇の統帥権を侵害する『統帥権干犯』だ」と激しく攻撃した。
実際には、軍艦の整備は海軍省の権限であり、問題はなかった。しかし、政友会は党利党略のために、この問題を利用したのである。
この攻撃は、軍部を刺激した。以後、軍部は「統帥権」を錦の御旗として、政府の統制を離れて暴走していく。満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へ——軍部の暴走を許す道を、一郎は開いてしまったのである。
戦後、GHQはこの点を厳しく追及した。「軍部の台頭に協力した軍国主義者」——一郎への評価は、こうなった。
軽井沢への隠遁
昭和15年(1940年)、政党は解党され、大政翼賛会が発足した。一郎は、この翼賛体制に批判的だった。
「翼賛選挙」では、推薦を得られなかったが、何とか議席を確保。しかし、東条英機内閣を批判するものの、倒閣は断念し、軽井沢に隠遁した。
軽井沢では、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成らと交流を続けた。完全な隠遁ではなく、情報収集は怠らなかった。
昭和20年(1945年)8月15日、一郎は軽井沢の石橋正二郎の別荘で玉音放送を聞いた。そのとき一郎は、一瞬涙を流したが、すぐに「これで軍人の時代は終わった。今度は俺たちの時代だ」と語ったという。
翌16日、一郎は東京へ戻った。新しい時代を切り開く準備が始まった。
第3章:組閣寸前での公職追放
日本自由党の結成
昭和20年11月、一郎は残った政友会のメンバーを集めて「日本自由党」を結成し、総裁に就任した。
昭和21年(1946年)4月10日、戦後初の総選挙が実施された。女性参政権が認められた、画期的な選挙だった。
結果は、日本自由党の圧勝。140議席を獲得し、第一党となった。一郎の首相就任は確実視された。
5月3日——突然の公職追放
昭和21年5月3日、GHQから一郎に公職追放の通知が届いた。理由は:
- 統帥権干犯問題で軍部台頭に協力した
- 滝川事件で学問の自由を侵害した
- 治安維持法の改正に関与した
- 戦前にヒトラーを賞賛する著作を出版した(実際はゴーストライターが執筆)
- 戦後にアメリカを批判する発言をした
5月7日、正式に公職追放が発表された。一郎は、すでに燕尾服を着て、組閣の大命を受けに皇居へ行く準備をしていたという。
国民は衝撃を受けた。民主的な選挙で選ばれた政治家が、占領軍の一言で追放される——日本には、超法規的な存在があることを、誰もが思い知らされた。
吉田茂への禅譲
一郎は、後継総裁として吉田茂を指名した。吉田は最初固辞したが、松野鶴平の説得で受諾。昭和21年5月22日、第一次吉田内閣が発足した。
一郎は吉田に言った。「私の追放が解けたら、すぐに総裁の座を返してくれ」。吉田は「もちろんだ」と答えた。
この約束が、後に大きな波紋を呼ぶことになる。
第4章:追放解除と脳梗塞——二重の試練
昭和26年8月6日——追放解除
昭和26年(1951年)8月6日、サンフランシスコ講和条約締結を前に、一郎の公職追放が解除された。
一郎は歓喜した。5年間の空白を経て、ついに政界復帰できる。そして、吉田との約束通り、総裁の座を取り戻せる——そう信じていた。
しかし、運命は一郎に残酷だった。
昭和26年6月——脳梗塞で倒れる
追放解除の直前、昭和26年6月、一郎は脳梗塞で倒れた。半身不随の状態となり、再起不能と言われた。
医師たちは、「もう政治は無理だ」と診断した。一郎にとって、追放解除の喜びは、一転して絶望に変わった。
妻・薫が、献身的に看病した。「あなたは必ず復活する。私が信じている」。薫の支えが、一郎の生きる力となった。
リハビリと政界復帰
一郎は、驚異的な回復力を見せた。厳しいリハビリに耐え、徐々に体力を取り戻していった。
昭和27年(1952年)10月1日の第25回衆議院議員総選挙に、一郎は立候補。半身不随の体で、選挙戦を戦い抜いた。
結果は当選。一郎は政界に復帰した。69歳。不死鳥のような復活だった。
第5章:吉田茂との対立——盟友から宿敵へ
「総裁を返せ」
政界復帰した一郎は、吉田に総裁の座を返すよう要求した。「約束を守ってくれ」。
しかし吉田は、首を縦に振らなかった。「病人に政権は任せられない」——吉田の言葉は、冷たかった。
権力の甘さを知った吉田は、手放したくなかったのである。一郎と吉田の関係は、盟友から宿敵へと変わった。
バカヤロー解散
昭和28年(1953年)2月、衆議院予算委員会で、吉田首相が社会党の西村栄一議員に対し「バカヤロー」と小声で呟いたのがマイクに拾われ、大問題となった。
野党は不信任案を提出。一郎率いる反吉田派も、この動きに同調した。吉田は衆議院を解散。いわゆる「バカヤロー解散」である。
選挙の結果、吉田派と鳩山派は拮抗。両派は一時和解し、吉田自由党に合流した。しかし、この和解は長くは続かなかった。
日本民主党の結成
昭和29年(1954年)11月24日、一郎は再び自由党を離脱。改進党と合流し、「日本民主党」を結成した。総裁は一郎、副総裁は重光葵、幹事長は岸信介という布陣だった。
反吉田勢力を結集した民主党は、120名の議員を擁する大政党となった。
12月7日、民主党は自由党に対し内閣不信任案を提出。可決され、吉田内閣は総辞職に追い込まれた。
吉田茂の時代は、終わった。そして、ついに鳩山一郎の時代が来たのである。
第6章:71歳での首相就任——「鳩山ブーム」
昭和29年12月10日——第一次鳩山内閣発足
昭和29年(1954年)12月10日、鳩山一郎は第52代内閣総理大臣に就任した。71歳。戦後最高齢での首相就任だった。
組閣寸前の公職追放から8年半。脳梗塞からの奇跡の復活。吉田との激しい対立——幾多の試練を乗り越えての、宿願達成だった。
就任演説で、一郎は「憲法改正」「再軍備」「自主外交」を掲げた。吉田の対米追従路線とは異なる、自主独立路線を目指すと宣言した。
「鳩山ブーム」
吉田茂は貴族的で、国民から遠い存在だった。これに対し、鳩山一郎は庶民的で、親しみやすかった。
半身不随の体で、懸命に職務を遂行する姿は、国民の共感を呼んだ。「鳩山ブーム」と呼ばれる人気が、全国を席巻した。
天の声解散
昭和30年(1955年)1月、一郎は衆議院を解散した。いわゆる「天の声解散」である。
選挙前、一郎は神社で祈願した。「総選挙で過半数を取れるかどうか、神様に聞いてみる」と語り、これがマスコミに報道されて話題となった。
結果は、民主党が第一党となったものの、過半数には届かなかった。「天の声」は、厳しいものだった。
それでも、一郎は首相を続投。3月19日、第二次鳩山内閣が発足した。
第7章:保守合同と55年体制の誕生
社会党の統一
昭和30年10月、左右に分裂していた社会党が統一された。統一社会党は156議席を持つ、巨大野党となった。
保守勢力にとって、これは大きな脅威だった。このままでは、社会党に政権を奪われかねない。
保守合同への動き
財界や党内から、「保守勢力も統一すべきだ」という声が高まった。自由党と民主党が合併すれば、社会党に対抗できる。
一郎も、この流れに同意した。憲法改正を実現するには、議会で3分の2以上の議席が必要だ。そのためには、保守の大同団結が不可欠だった。
昭和30年11月15日——自由民主党の誕生
昭和30年(1955年)11月15日、自由党と日本民主党が合併し、「自由民主党」が誕生した。
新党の総裁選挙は、当初、総裁代行委員制で運営され、昭和31年(1956年)4月5日に正式な総裁選挙が実施された。一郎は、初代総裁に選出された。
自民党は、衆議院で299議席を持つ巨大政党となった。一方、社会党は156議席。自民党が約3分の2、社会党が約3分の1——この政治構造が、以後約40年間続くことになる。
これが「55年体制」である。一郎は、戦後日本の政治体制の基礎を築いたのである。
11月22日、第三次鳩山内閣が発足した。
第8章:日ソ国交回復——一郎最大の功績
ソ連との関係
戦後、日本とソ連は国交がなかった。シベリア抑留問題もあり、両国の関係は冷え切っていた。
一郎は、ソ連との国交回復を悲願とした。政敵・吉田茂がサンフランシスコ講和条約で独立を実現した。一郎も、それに匹敵する業績を残したい——そんな思いもあった。
モスクワへ
昭和31年(1956年)10月、一郎はモスクワを訪問した。73歳、半身不随の体での訪ソは、命がけの旅だった。
ソ連のブルガーニン首相、フルシチョフ第一書記との交渉は難航した。北方領土問題が、最大の障害だった。
日ソ共同宣言
10月19日、日ソ共同宣言が調印された。主な内容は:
- 日本とソ連の戦争状態を終了させ、外交関係を回復する
- ソ連は日本の国連加盟を支持する
- シベリア抑留者を帰国させる
- 平和条約締結後、歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す(ただし、国後島と択捉島については言及なし)
完全な解決ではなかった。しかし、国交回復は実現した。数十万人のシベリア抑留者が帰国でき、日本は国連に加盟できた。
一郎は、政治生命を賭けた大仕事を成し遂げたのである。
12月12日——内閣総辞職
日ソ国交回復を花道に、昭和31年12月12日、鳩山内閣は総辞職した。一郎の首相在任期間は、約2年間だった。
一郎は、満足していた。「私の使命は終わった」。
第9章:「友愛」という理念
クーデンホーフ=カレルギーとの出会い
公職追放中の昭和26年(1951年)、一郎はリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と出会った。
クーデンホーフ=カレルギーは、「汎ヨーロッパ運動」の提唱者で、欧州統合の父と呼ばれる思想家だった。彼の母は日本人(青山みつ)で、日本にも深い愛着を持っていた。
クーデンホーフ=カレルギーが説く「友愛(fraternity)」の思想に、一郎は深く感銘を受けた。
『自由と人生』の翻訳
一郎は、クーデンホーフ=カレルギーの著書を『自由と人生』として日本語訳で出版した。
「友愛」とは、自由・平等とともにフランス革命のスローガンとなった理念である。しかし、自由と平等だけでは、社会は成り立たない。人々が互いに思いやり、助け合う「友愛」の精神こそが、真の民主主義の基礎となる——これがクーデンホーフ=カレルギーの主張だった。
一郎は、この理念を日本に広めることを決意した。
友愛青年同志会の設立
昭和28年(1953年)、一郎は「友愛青年同志会」を結成し、会長に就任した。クーデンホーフ=カレルギーは、名誉会長となった。
友愛青年同志会は、10万人の会員を擁する大組織に成長した。一郎は、政財界での指導力を発揮した。
昭和34年(1959年)、一郎の妻・薫が理事長となり、財団法人日本友愛青年協会が設立された。現在も、一般財団法人日本友愛協会として活動を続けている。
「友愛」は、一郎の政治理念の根幹となった。そして、孫の鳩山由紀夫にも受け継がれることになる。
フリーメイソンへの入会
昭和26年(1951年)3月29日、一郎はフリーメイソンに入会した。入会場所は「東京ロッジ No.125」だった。
フリーメイソンは「友愛の団体」である。クーデンホーフ=カレルギーもフリーメイソンだった。一郎にとって、入会は自然な選択だった。
昭和30年(1955年)、一郎は第三階級(マスター・メイソン)に昇進。昭和31年(1956年)の昇進式では、「友愛精神」「兄弟愛」という言葉を用いて挨拶をした。
一郎のフリーメイソン入会は、戦後日本政治の一つの特徴である。
第10章:知られざる鳩山一郎の素顔
妻・薫との絆
一郎の妻・薫は、「内助の功」の見本と言われた。
公職追放の時も、脳梗塞の時も、薫は一郎を支え続けた。一郎が政治活動に専念できたのは、薫の献身的な支えがあったからだ。
一郎と薫の間には、一男四女が生まれた。長女・百合子、次女・玲子、長男・威一郎、三女・恵子、四女・信子。
長男・威一郎の息子が、鳩山由紀夫と鳩山邦夫である。一郎の血は、孫の世代に受け継がれた。
温厚で親しみやすい性格
一郎は、温厚で親しみやすい性格だった。吉田茂の貴族的な雰囲気とは対照的に、一郎は庶民的だった。
記者たちとも気さくに接し、「一郎さん」と親しまれた。この人柄が、「鳩山ブーム」を生んだ。
書と漢詩
一郎は、書道が得意だった。達筆で知られ、多くの人が一郎の書を求めた。
また、漢詩も作った。教養人としての一面を持っていた。
晩年の日々
首相退任後も、一郎は政界に影響力を保ち続けた。しかし、体調は徐々に悪化していった。
昭和34年(1959年)3月7日早朝、一郎は東京都内の自宅で老衰のため死去。享年76歳だった。
最期の言葉は、「友愛」だったと言われている。
第11章:鳩山一郎の遺産
55年体制という礎
一郎が築いた55年体制は、その後約40年間続いた。自民党の長期政権が、日本の高度経済成長を支えた。
一郎がいなければ、保守合同は実現しなかったかもしれない。その意味で、一郎は戦後日本政治の設計者の一人である。
日ソ国交回復
日ソ国交回復により、数十万人のシベリア抑留者が帰国できた。日本は国連に加盟し、国際社会への復帰を果たした。
一郎の最大の功績は、この外交成果である。
憲法改正という「未完の夢」
しかし、一郎が最も望んだ「憲法改正」は、実現できなかった。
一郎は、GHQに押し付けられた憲法を、日本人自身の手で作り直したかった。しかし、国民の支持は得られなかった。
この夢は、弟子の岸信介に、そして孫の安倍晋三にまで受け継がれたが、やはり実現しなかった。
統帥権干犯問題という「負の遺産」
一郎の最大の「罪」は、統帥権干犯問題である。
軍部の暴走を許し、日本を戦争へと導く道を開いてしまった。この責任は重い。
一郎自身、戦後この問題について明確な反省の言葉を述べることはなかった。
結論:「悲劇の宰相」は、本当に悲劇だったのか
鳩山一郎という政治家をどう評価するか——これは難しい問いである。
肯定的評価:
- 保守合同を実現し、55年体制を築いた
- 日ソ国交回復を成し遂げ、シベリア抑留者を帰国させた
- 「友愛」という理念を広め、後世に受け継いだ
- 幾多の挫折から立ち上がる、不屈の精神を示した
否定的評価:
- 統帥権干犯問題で、軍部の台頭を許した
- 滝川事件で、学問の自由を侵害した
- 憲法改正という目標は、実現できなかった
- 吉田茂との確執で、政治を混乱させた
しかし、「悲劇の宰相」と呼ばれた一郎の人生を見ると、確かに悲劇の連続だった。組閣寸前の公職追放、脳梗塞、吉田との対立——どれも、一郎に重くのしかかった。
だが、一郎は決して諦めなかった。何度倒れても、立ち上がった。そして、71歳でついに総理大臣となり、日ソ国交回復という大仕事を成し遂げた。
これは、悲劇ではなく、むしろ「勝利」ではないだろうか。
「友愛」——一郎が生涯大切にしたこの言葉は、孫の鳩山由紀夫にまで受け継がれた。由紀夫が民主党政権で掲げたスローガンも「友愛」だった。
祖父が蒔いた種は、孫の世代でも花を咲かせようとした。ただし、由紀夫の政権は短命に終わり、「友愛」という理念も、十分に理解されることはなかった。
令和の今、日本は再び岐路に立っている。アメリカとの関係、中国・ロシアとの関係、憲法改正——一郎が直面した課題は、今も続いている。
組閣寸前で追放され、半身不随になりながらも総理大臣となった男。吉田茂と激しく対立しながら、保守合同を実現した男。「友愛」を掲げ、孫の世代にまで理念を受け継がせた男。
鳩山一郎という政治家の生涯は、挫折と復活の連続だった。そして、その不屈の精神は、今も日本政治に何かを問いかけているのである。
本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の会話や内面描写は資料を基にした筆者による再構成であることをご了承ください。また、政治的評価については多様な見解があることを理解した上でお読みください。

