2025年、日本を訪れた外国人旅行者数が約4270万人となり、ついに年間4000万人の大台を突破しました。これはコロナ前最多だった2019年の3188万人から約1000万人以上の増加という驚異的な伸びであり、政府が長年掲げてきた目標を大きく前倒しで達成した形です。円安の追い風に加え、日本食や伝統文化への関心の高まり、さらには大阪・関西万博の開催効果も重なり、日本は名実ともに世界有数の観光大国へと成長を遂げました。
しかし、この輝かしい成功の裏側には、決して見過ごすことのできない深刻な課題が横たわっています。観光客の急増がもたらす莫大な経済効果と、地域住民の日常生活を脅かす「オーバーツーリズム」という相反する二つの現実について、世界各国の先行事例を交えながら詳しく考察していきましょう。
インバウンドがもたらす巨大な経済効果
訪日観光客の増加は、日本経済に計り知れないほどの恩恵をもたらしています。観光庁が発表した統計によると、2024年の訪日外国人旅行消費額は8兆1395億円に達し、過去最高記録を大幅に更新しました。この数字は2019年と比較して約69%もの増加であり、国内のアパレル市場全体に匹敵する巨大な規模となっています。さらに財務省の貿易統計と照らし合わせると、インバウンド消費は輸出産業として自動車産業に次ぐ第2位の位置を占めており、もはや日本経済を根底から支える重要な柱のひとつとなっていることは疑いようがありません。
消費の内訳を詳しく見ていくと、宿泊費が全体の33.6%と最も大きな割合を占め、続いて買物代が29.5%、飲食費が21.5%という構成になっています。特筆すべきは1人当たりの旅行支出が22万7000円と過去最高を記録したことです。なかでも欧米豪からの観光客の消費単価は際立って高く、イギリスからの旅行者は1人当たり約41万円、オーストラリアからは約40万円、スペインからは約38万円と、アジア圏の観光客と比較して大幅に高い支出傾向が見られます。
国・地域別の消費額ランキングでは、中国が1兆7335億円でトップの座に返り咲き、全体の21.3%という圧倒的なシェアを占めています。これに続くのが台湾の1兆936億円、韓国の9632億円、アメリカの9021億円、香港の6584億円となっており、この上位5カ国・地域だけで全体のおよそ66%を占める構造となっています。コロナ禍で大きく落ち込んでいた中国人観光客が本格的に回復したことが、消費額全体を押し上げる大きな要因となりました。
また、2019年比での伸び率を見ると、アメリカが179.5%増と最も高く、カナダが163.1%増、イタリアが152.4%増、シンガポールが135.7%増と続いています。欧米からの長距離旅行者が増加していることは、日本の観光地としての国際的な評価が着実に高まっていることの証左と言えるでしょう。
政府は2030年までに訪日客6000万人、消費額15兆円という野心的な目標を掲げていますが、現在の成長ペースが継続すれば、この目標も十分に射程圏内に入ってきたと言えるでしょう。
深刻化するオーバーツーリズムの実態
一方で、観光客の急増は日本各地において「オーバーツーリズム」あるいは「観光公害」と呼ばれる深刻な社会問題を引き起こしています。世界観光機関(UNWTO)はオーバーツーリズムを「観光地やその観光地に暮らす住民の生活の質、及び訪れる旅行者自身の体験の質に対して、観光が過度にネガティブな影響を与える現象」と定義しています。簡潔に言えば、観光地が本来持つ受け入れ能力(キャパシティ)を大幅に超える観光客が殺到することで、地域住民の日常生活が著しく阻害され、同時に観光客側も満足な体験を得られなくなるという、双方にとって不幸な状態を指すのです。
この問題が顕在化した背景には、いくつかの構造的要因があります。まず、LCC(格安航空会社)の台頭により航空運賃が大幅に低下し、海外旅行のハードルが劇的に下がったこと。次に、オンライン予約サービスの普及で個人旅行が容易になったこと。そして何より、InstagramやTikTokなどのSNSによって特定の観光スポットの情報が瞬く間に世界中に拡散されるようになったことが挙げられます。かつては旅行ガイドブックに載っているような定番スポットに観光客が集まっていましたが、現在では思いもよらない場所が突然「映えスポット」として脚光を浴び、観光地化してしまうケースが後を絶ちません。
日本国内で最もオーバーツーリズムが深刻化しているのが、言うまでもなく古都・京都です。春の桜や秋の紅葉シーズンになると、市内を走る路線バスは外国人観光客で完全に飽和状態となり、地元住民が通勤や通学、日常の買い物のためにバスを利用しようとしても、何台も見送らなければ乗車できないという異常事態が常態化しています。京都市が実施した住民意識調査によると、実に80%以上の住民が公共交通機関の混雑によって日常生活に深刻な支障をきたしていると回答しています。
問題はバスの混雑だけにとどまりません。観光客によるゴミの不法投棄、民家の庭先や私有地への無断侵入、写真撮影のために道路を塞ぐ行為など、マナー違反が後を絶ちません。とりわけ祇園地区では、舞妓さんや芸妓さんを追いかけ回して写真を撮影したり、着物の袖を引っ張ったりするなどの迷惑行為が頻発し、花街の伝統文化そのものが存続の危機に瀕しています。かつての「はんなり」とした京都の風情は、人・人・人の波に完全にかき消されつつあるのが現状です。
京都市は「場所・季節・時間」の3つの分散化を基本方針として掲げ、リアルタイムの混雑情報システムの構築、鉄道や地下鉄の利用促進、JR山科駅や東福寺駅をサブゲートとして活用する取り組み、観光税の導入検討など様々な対策に取り組んでいます。しかしながら、清水寺や嵐山、伏見稲荷大社といった人気スポットへの観光客の一極集中は一向に改善される気配がなく、抜本的な解決には程遠い状況が続いています。
富士山周辺でも深刻な問題が顕在化しています。2024年7月から山梨県では富士山5合目の登山口にゲートを設置し、1日あたり4000人という入山制限と2000円の通行料徴収を開始しました。夜通し山頂を目指す「弾丸登山」による遭難事故の防止、登山道の環境保全、山小屋のキャパシティ管理などが主な目的ですが、日本を代表する観光地において本格的な入場制限が導入されたのは、これが初めてのケースとなりました。
さらに世間の注目を集めたのが、山梨県富士河口湖町で起きた「コンビニ富士山」騒動です。あるコンビニエンスストアの店舗越しに富士山を撮影できる構図がSNSで「映えスポット」として爆発的に拡散され、外国人観光客が連日殺到する事態となりました。狭い歩道や車道にまで人が溢れ出し、交通事故の危険性が高まったほか、周辺へのゴミのポイ捨て、近隣住民への騒音被害なども深刻化。ついに町は撮影を物理的に阻止するため、店舗前に大きな黒い幕を設置するという前代未聞の措置に踏み切りました。本来は何の変哲もない普通のコンビニが、SNS時代におけるオーバーツーリズムの象徴的な存在となってしまったのです。
その他にも、世界自然遺産の屋久島では登山客の増加により植生の踏み荒らしや携帯トイレの処理問題が深刻化しています。大阪では関西万博を控え、東アジアからの観光客のさらなる増加が見込まれており、道頓堀や新世界といった繁華街でのオーバーツーリズム対策が喫緊の課題となっています。
世界の人気観光地が直面する同じ課題
オーバーツーリズムに頭を悩ませているのは、もちろん日本だけではありません。世界各地の人気観光都市においても、同様の問題が深刻化しており、各国政府や自治体はそれぞれ独自の対策を模索しています。
イタリア北東部に位置する水の都ベネチアは、オーバーツーリズムの代名詞とも言える存在です。人口わずか5万人程度の小さな都市に、年間2000万人を超える観光客が押し寄せます。迷路のように入り組んだ狭い路地は常に観光客で埋め尽くされ、かつて約11万人が暮らしていた歴史的中心部の住民人口は、現在では5万人にまで激減してしまいました。家賃の高騰、生活必需品を扱う店舗の減少、騒音や混雑による生活環境の悪化などが原因で、地元住民が次々と島を離れていったのです。ユネスコはこの状況を深刻視し、気候変動とオーバーツーリズムへの対策が不十分であるとして、ベネチアを世界遺産の「危機遺産リスト」に登録するよう勧告したほどです。
この危機的状況を打開すべく、ベネチア市は2024年4月から日帰り観光客を対象に5ユーロ(約820円)の入場料を試験的に導入しました。混雑が予想される特定の日に限り、事前のオンライン登録とQRコードの提示を義務付けるという世界でも類を見ない制度です。試験期間中の29日間で約48万5000人から243万ユーロ(約4億円)を徴収し、収益面では当初見込みの3倍以上という「成功」を収めました。しかし、皮肉なことに観光客数はむしろ増加傾向を示し、当初の目的であった混雑緩和という点では全く効果が得られませんでした。地元の議員からは「100ユーロもするゴンドラ乗船料や11ユーロのカプチーノを喜んで支払う観光客にとって、たった5ユーロの入場料など何の抑止力にもならない」という厳しい批判の声が上がっています。市は2025年には入場料を10ユーロに引き上げる案を検討したほか、団体観光客の上限を25人に制限する、ガイドによる拡声器の使用を全面禁止するなど、次々と規制の強化を進めています。
スペイン第二の都市バルセロナでは、さらに深刻な事態が発生しました。2024年7月、「バルセロナは売り物じゃない」「観光客は帰れ」と書かれた横断幕を掲げた市民による大規模な抗議デモが街の中心部で展開されました。150以上の団体から数千人が参加し、一部の参加者がレストランのテラス席で食事中の観光客に向かって水鉄砲を発射する様子がSNSで拡散され、世界中のメディアで大々的に報道されることとなりました。人口約160万人の都市に年間1560万人もの観光客が押し寄せた結果、観光客向けの短期賃貸物件(いわゆる民泊)が急増し、それに伴って地元住民向けの賃貸住宅の家賃が天井知らずに高騰。観光で潤う事業者がいる一方で、観光とは無縁の仕事をしている一般市民にとっては、生活コストだけが上昇し続けるという不公平な状況に対する不満が、ついに爆発したのです。
バルセロナ市は2024年10月から観光税を大幅に引き上げ、五つ星ホテルの宿泊者からは1泊あたり6.75ユーロを徴収する制度を開始しました。この税収は2024年に約9580万ユーロ(約153億円)に達する見込みで、インフラ整備や持続可能な観光の推進に活用されています。さらに2028年までに市内に存在する全ての観光用アパートメントのライセンスを廃止するという、極めて大胆な政策を発表しています。これにより約1万軒の民泊施設が姿を消すことになり、住宅供給の正常化と家賃高騰の抑制を目指しています。また、クルーズ船についても特定のターミナルへの入港制限を実施し、環境負荷の軽減を図っています。
年間1億人以上という世界最多の外国人観光客を受け入れる観光大国フランスでも、各地でオーバーツーリズム対策が本格化しています。ヨーロッパ最高峰のモンブランでは1日あたりの登山者数に上限を設け、事故防止とゴミの削減を図っています。南仏マルセイユ近郊のカランク国立公園では生態系保護のため入場者数を厳しく制限しています。ブルターニュ地方の小さなブレハ島では、ゴミ問題や騒音問題、景観破壊への対応として、夏季の日帰り観光客を1日4700人までに制限する措置を導入しました。首都パリでも観光バスの市中心部への乗り入れ規制が強化され、「市中心部ではもはやバスを歓迎しない」と副市長が明言しています。世界的に有名なシャンゼリゼ通りでは自動車を減らして緑地と歩行者空間を大幅に拡大する大規模な改修工事が進行中です。
フランス政府の分析によると、同国を訪れる観光客の実に80%がパリ、南仏のコートダジュール、ノルマンディーのモンサンミッシェルなど国土のわずか20%のエリアに集中しているとされています。この著しい偏りを是正するため、政府は観光産業のデータを収集・分析する監視機関を設置し、旅行系インフルエンサーと協力して知られざる地方の魅力を積極的に発信するキャンペーンも展開しています。
日本に求められる対策とは
世界各国の先行事例から、日本が今後取るべき方向性がいくつか明確に浮かび上がってきます。
第一に挙げられるのは、価格メカニズムの戦略的な活用です。観光施設の入場料や宿泊税を適正な水準まで引き上げ、その税収を地域住民の生活環境改善や観光インフラの整備、文化財の保全などに確実に還元していく仕組みの構築が急務です。トルコでは主要観光施設の外国人向け入場料をこの10年間で30倍近くにまで引き上げる一方、自国民には年間わずか60リラ(数百円程度)で全ての施設に入場できるパスを発行するという「二重価格制度」を導入し、成果を上げています。ブータンも「高付加価値・低量」の観光政策を掲げ、高額な滞在費を設定することで観光客数を抑制しつつ、質の高い観光体験を提供しています。日本においても、外国人観光客向けの特別料金設定は真剣に検討する価値があるでしょう。
第二の課題は、地方への観光客分散の促進です。現状では訪日外国人観光客の大多数が東京、大阪、京都といった三大都市圏とその周辺に集中しており、地方部への波及効果は極めて限定的です。政府は2023年10月に「オーバーツーリズムの未然防止・抑制に向けた対策パッケージ」を決定し、全国14カ所のモデル観光地を選定して地方誘客の促進に取り組んでいますが、さらなる施策の強化が必要です。日本の地方には、世界に誇れる魅力的な観光資源が数多く眠っています。それらを戦略的に発信し、訪問先の分散を図ることこそが、オーバーツーリズムの解消と地方創生の一石二鳥を実現する道筋となるはずです。
第三に重要なのは、最先端テクノロジーの積極活用です。人工知能(AI)を駆使した混雑予測システム、需要に応じて価格を変動させるダイナミックプライシングの導入、スマートフォンアプリを通じたリアルタイムの混雑情報配信など、テクノロジーの力を最大限に活用した需要の平準化も有効な手段となります。京都市ではすでに観光地の混雑状況を可視化するモニタリング環境の整備に着手しており、ICTやAIを活用した観光マネジメントの高度化を進めています。こうした取り組みを全国規模で展開していくことが望まれます。
そして第四に、最も本質的かつ重要な転換が**「量」から「質」への戦略シフト**です。単純に観光客の頭数を増やすことだけを追い求めるのではなく、1人当たりの消費単価を着実に向上させていく戦略へと発想を根本から切り替える必要があります。現在の1人当たり旅行支出22万7000円を、政府目標である6000万人・15兆円から逆算すると、25万円程度まで引き上げる必要があります。富裕層向けの高付加価値な体験コンテンツの開発、長期滞在を促進する魅力的な商品設計、日本独自の「おもてなし」の精神を活かしたきめ細やかなサービスの充実こそが、持続可能な観光立国への確かな道筋となるはずです。
おわりに
観光立国を国家戦略として掲げる日本にとって、インバウンド観光は間違いなく貴重な経済成長のエンジンです。8兆円を超える消費額は日本経済全体に大きく貢献しており、今後もさらなる拡大が期待されています。人口減少が進む日本において、外貨を獲得し地方経済を活性化させる手段として、観光産業の重要性はますます高まっていくことでしょう。
しかしながら、地域で暮らす住民の日常生活を犠牲にした観光振興は、決して持続可能なものとは言えません。観光産業で潤う事業者がいる一方で、観光とは無関係な仕事に従事する一般住民にとっては、家賃や物価の上昇、交通機関の混雑、騒音や治安の悪化といった負の側面ばかりが押し付けられる構図になりかねないのです。バルセロナの街角で巻き起こった住民たちの怒りの声は、決して対岸の火事ではありません。京都の住民が市バスに乗れない現状、富士河口湖町のコンビニに黒幕が張られた光景は、日本版オーバーツーリズムがすでに深刻な段階に達していることを如実に物語っています。
訪日外国人4000万人という数字は、日本の観光産業が明らかに新たなステージへと突入したことを雄弁に物語っています。この歴史的な節目を機に、観光客と地域住民が真に共存できる環境の整備、そして「量」から「質」への本格的な転換を着実に進めていくべき時が到来しています。真の意味での「観光立国」とは一体何なのか。その問いを改めて深く問い直し、世界に胸を張って誇れる持続可能な観光モデルを構築していくことこそが、今まさに日本という国に求められている使命ではないでしょうか。

