高額療養費制度見直しは「凍結」――70歳以上の外来特例はどうなる?

制度

2025年8月からの実施が予定されていた高額療養費制度の見直しが、2025年3月7日に全面的に見送られた。石破茂首相(当時)が患者団体との面会後、「国民の理解が得られていない」として見直し全体の実施見合わせを決断したのである。しかし、これは「撤回」ではなく「凍結」であり、2025年秋までに改めて方針を検討・決定するとされている。70歳以上の「外来特例」見直しを含む制度改革は、いったい何が問題だったのか。そして今後どうなるのか。本記事では、見送りに至った経緯と今後の展望を詳しく解説する。

何が起きたのか――見直し案から凍結までの経緯

2024年12月:見直し方針の決定

社会保障審議会医療保険部会での議論を経て、政府は2024年12月、高額療養費制度の見直し方針を決定した。その内容は:

【自己負担限度額の引き上げ】

  • 2025年8月〜:現行の所得区分に基づいた引き上げ
  • 2026年8月〜:所得区分を5区分から13区分に細分化
  • 2027年8月〜:新しい区分に基づいた最終的な引き上げ

【70歳以上の外来特例の見直し】

  • 一般区分(2割負担):月18,000円→28,000円、年間144,000円→224,000円
  • 一般区分(1割負担):月18,000円→20,000円、年間144,000円→160,000円
  • 住民税非課税世帯:月8,000円→13,000円

この見直しにより、給付費が約3,700億円軽減され、保険料負担が年間1,100円〜5,000円軽減される見込みだった。

2025年2月〜3月:患者団体の猛反発

しかし、この見直し案に対し、がん患者団体や難病患者団体から強い反対の声が上がった。

  • 全国がん患者団体連合会
  • 日本難病・疾病団体協議会
  • 東京保険医協会
  • 全国保険医団体連合会(保団連)

これらの団体は、「多数回該当」(過去12カ月以内に3回以上高額療養費を受けている人)の負担増が特に深刻だと指摘。がんや難病で長期治療を受ける患者にとって、年間数十万円の負担増となるケースもあることを訴えた。

2月28日:石破首相の「第1次見直し」

患者団体の声を受け、石破首相は2月28日、一部見直しを表明:

  1. 2025年8月からの引き上げは予定通り実施
  2. ただし「多数回該当」の上限額は据え置く
  3. 2026年8月以降の引き上げは2025年秋までに再検討

しかし、この内容は「実質的に『見直し』と呼べるものではなかった」(東京保険医協会)との批判を受けた。

3月4日:衆議院で予算案可決

3月4日、高額療養費の上限額引き上げを含む2025年度予算修正案が衆議院を通過。翌5日から参議院での審議が始まった。

しかし、患者団体は訴えを続け、与党内からも異論が相次いだ。立憲民主党の野田代表、日本維新の会、公明党、自民党の衆参議員からも意見が寄せられた。

3月7日:石破首相の「全面凍結」決断

そして3月7日、石破首相は患者団体と再度面会した後、以下のように述べた:

「患者団体の皆様と面会をし、直接、その切実なお声を承ったところであります。これまでも、御指摘を真摯に受け止めて、『多数回該当』の方の負担据え置きや、令和8年度以降の所得区分の細分化の再検討などを行い、その点については一定の御評価を頂戴をいたしましたが、本年分の定率改定を含め、今回の見直しについて、なお御理解を頂くには至っておりません」

「患者の皆様に御不安を与えたまま、見直しを実施することは望ましいことではないと止めねばならないと思っております」

「こうしたことから、私は本年8月に予定されております定率改定を含めて、見直し全体について、その実施を見合わせるという決断をいたしました。本年秋までに、改めて方針を検討し、決定することといたします」

これは、3月4日に衆議院本会議で予算案が可決された後の異例の方針転換だった。

見送りの背景――何が問題だったのか

1. 「受診抑制」を前提とした制度設計への批判

最も問題視されたのは、政府が見直しによる「長瀬効果」として約1,950億円の削減を見込んでいた点である。

「長瀬効果」とは、保険数理技師の長瀬恒蔵氏が1935年に著した「傷病統計論」に由来する概念で、保険給付率によって患者の受診行動に変化が生じることを指す。つまり、自己負担が増えると患者が受診を控える効果である。

福岡厚労相(当時)は2月21日の衆院予算委員会で、「長瀬効果を約1,950億円見込んでいる」と述べた。これは事実上、「受診抑制により削減できる医療費」を制度設計に織り込んでいたことを意味する。

東京保険医協会は「政府は『必要な医療を受けられなくなることがないようにする』と述べているが、自己負担上限額の引き上げは、受診抑制を人為的に作り出すことを目的としており、発言は矛盾している。治療を諦める人を増やし、患者を見殺しにする政策は許されない」と厳しく批判した。

2. 長期治療患者への過重な負担

特に深刻なのは、がんや難病で長期治療を受ける患者への影響である。

例えば、年収約600万円の人が毎月高額療養費の上限に達するような治療を受けている場合:

  • 現行:月約80,100円×12カ月=年間約96万円(多数回該当適用後はさらに軽減)
  • 改正後(2027年最終段階):月約113,400円×12カ月=年間約136万円

年間で約40万円もの負担増となる計算だ。

がん患者の中には、何年にもわたって化学療法や分子標的薬、免疫チェックポイント阻害剤などの高額治療を継続する人も多い。こうした患者にとって、年間数十万円の負担増は生活を脅かしかねない。

3. 拙速な決定プロセスへの批判

見直しの詳細は、社会保障審議会医療保険部会での議論を経たものの、最終的には「政府の予算編成過程の中で決められた」(連合談話)ものだった。

患者団体からは、以下のような声が上がった:

  • 「当事者である患者の声が十分に聞かれていない」
  • 「家計への影響についての丁寧な議論が不足している」
  • 「制度の持続可能性と患者保護のバランスが取れていない」

連合(日本労働組合総連合会)も、医療保険部会での議論において、「①国民や患者の不安、家計への過度な負担増、経済力による受診控えにつながらないよう、慎重かつ丁寧に検討すること、②がんなど長期的な治療が必要となる場合もあるため、急激な負担増を避けること、③保険料は負担能力に応じて負担している中、窓口での自己負担上限額でも応能負担を強めることが社会保険加入への納得感を欠くことにつながる懸念」などの意見を述べていた。

4. 「国民の理解が得られていない」との認識

最終的に石破首相が凍結を決断した最大の理由は、「国民の理解が得られていない」という認識だった。

患者団体や医療関係者だけでなく、与党内からも異論が相次ぎ、野党も一致して反対。世論の高まりを受けて、政府は方針転換を余儀なくされた。

東京保険医協会は、これを「国民的な世論の高まりによって、『国民の理解が得られていない』との認識が与党内で広がった結果」「協会・保団連や患者団体等による要請活動をはじめ、上限額引き上げの非人道性を訴える運動の成果」と評価している。

「凍結」であって「撤回」ではない――2025年秋までの再検討

重要なのは、今回の決定は見直しの「撤回」ではなく「凍結」だという点である。

石破首相は「高額療養費が増大する中、保険料負担を抑制するとともに、この大切なセーフティーネットを次の世代にも持続可能なものとするため、制度の見直し自体は必要」と述べており、見直しの必要性自体は認めている。

専門委員会の設置

凍結決定を受けて、厚生労働省は社会保障審議会医療保険部会の下に「高額療養費制度の在り方に関する専門委員会」を設置した。

初会合:2025年5月26日

専門委員会には、患者団体を代表して以下の委員が参画:

  • 天野慎介委員(全国がん患者団体連合会理事長)
  • 大黒宏司委員(日本難病・疾病団体協議会代表理事)

厚生労働省の鹿沼均保険局長と佐藤康弘保険課長は「丁寧な議論」を強調している。

今後のスケジュール

高額療養費の見直し方針は、以下の流れで2025年秋までにまとめられる見込み:

  1. 専門委員会での集中的な議論(2025年5月〜秋)
  2. 医療保険部会での議論
  3. 2025年秋までに方針決定
  4. 年末の予算編成過程で具体的な上限額などを決定

つまり、早ければ2026年度以降に何らかの見直しが実施される可能性がある。

議論のポイント

専門委員会では、以下のような論点が議論される見込み:

  1. 「多数回該当」制度の在り方:長期治療患者の負担をどう軽減するか
  2. 所得区分の細分化:より公平な負担の在り方
  3. 70歳以上の外来特例:高齢者の通院負担をどう考えるか
  4. 制度の持続可能性:医療保険財政をどう維持するか
  5. 患者の声と財政のバランス:両立は可能か

外来特例をめぐる論点――なぜ見直しが必要なのか

今回凍結された見直し案には、70歳以上の「外来特例」の引き上げも含まれていた。この外来特例とは何か、なぜ見直しが議論されているのかを改めて整理しておこう。

外来特例とは

外来特例は、70歳以上の高齢者が外来診療を受けた際の自己負担について、月額および年間の上限額を別途低く設定するものである。

現行の外来特例

  • 一般区分:月18,000円、年間144,000円
  • 住民税非課税世帯:月8,000円

高齢者は複数の慢性疾患を抱え、頻回な通院が必要となるため、外来医療費が重くなるケースが多い。この特例は、そうした高齢者の負担を軽減するために設けられている。

なぜ見直しが議論されるのか

しかし、医療保険部会では「外来特例について廃止も含めた見直しを検討すべき」との指摘が出ていた。その理由は:

  1. 世代間公平の問題:なぜ70歳以上だけに特例があるのか
  2. 現役世代の負担:高齢者医療を支える現役世代の保険料負担が限界に近い
  3. 保険料軽減効果:外来特例を見直せば、保険料軽減効果を大きくできる

厚労省の試算では、外来特例の見直しパターンとして3案が示されていた:

(1)完全廃止案:保険料軽減効果1,900億円 (2)一般区分のみ廃止案:保険料軽減効果1,300億円 (3)緩やかな見直し案:保険料軽減効果500億円

今回凍結された案は(3)に近い内容だった。

外来特例を守るべきとの声

一方で、患者団体や医療関係者からは「外来特例を廃止・大幅見直しすべきでない」との意見も強い:

  • 複数疾患を抱える高齢者の定期通院は不可欠
  • 高額薬剤を継続使用する必要がある高齢者もいる
  • 経済的理由で必要な医療を受けられなくなる恐れ

特に、月2万円程度の年金で暮らす低所得高齢者にとって、月8,000円の上限が13,000円になるだけでも大きな負担だという指摘がある。

医療保険財政の現実――なぜ見直しが必要なのか

患者保護の観点から見直しが凍結された一方で、医療保険財政の厳しさも事実である。

高額療養費の増加

高額療養費の総額は年々増加しており、現在、総医療費の6〜7%相当を占めている。その背景には:

  1. 高齢化の進展:75歳以上人口の増加
  2. 医療の高度化:新しい治療法・検査法の普及
  3. 高額薬剤の登場:がんの分子標的薬、免疫チェックポイント阻害剤、遺伝子治療薬など

厚労省の資料によると、健康保険組合の1,000万円超レセプト(診療報酬明細書)は10年で約7倍に増加。2023年度の上位100件の平均は約5,586万円、最高は約1億7,800万円に達している。

現役世代の保険料負担増

特に深刻なのは、現役世代の保険料負担の重さである。

高齢者医療を支えるための支援金・拠出金の負担が年々増加しており、協会けんぽ(中小企業の従業員が加入)の保険料率は2024年度に過去最高水準に達している。

現役世代の「支える力」が限界に近づいているのは事実であり、何らかの形で制度の持続可能性を確保する必要がある。

実効給付率の上昇

近年、高額療養費の自己負担限度額の上限が実質的に維持されてきた結果、医療保険制度における実効給付率(医療費のうち保険でまかなわれる割合)は約85%まで上昇している。

つまり、医療費の15%しか患者が負担せず、85%を保険料と公費で賄っている状況だ。これは、保険料を支払う人々の負担が相対的に重くなっていることを意味する。

今後の展望――どうなる高額療養費制度

シナリオ1:より慎重な見直し案

2025年秋までの再検討では、当初案よりも慎重な内容になる可能性が高い。

  • 多数回該当者への配慮を強化:長期治療患者の負担増を抑制
  • 低所得者への配慮を拡充:住民税非課税世帯などの負担据え置き
  • 段階的引き上げの緩和:より長期にわたる段階的な実施
  • 外来特例の維持または緩やかな見直し:完全廃止ではなく引き上げ幅を縮小

シナリオ2:抜本的な制度改革の模索

一方で、単なる「上限額の引き上げ」ではなく、より抜本的な制度改革を模索する動きもある:

  • 所得把握の精緻化:資産も考慮した負担の在り方
  • 高額薬剤の保険適用の在り方:費用対効果評価の導入拡大
  • 予防医療の推進:病気にならない、重症化させない取り組み
  • 医療DXによる効率化:重複検査・重複投薬の削減

シナリオ3:医療費適正化との一体改革

患者負担を増やすだけでなく、医療費そのものを適正化する取り組みも並行して進める必要がある:

  • 後発医薬品(ジェネリック)の使用促進:現在約92%
  • かかりつけ医機能の強化:大病院への過度な集中を抑制
  • 地域医療連携の推進:効率的な医療提供体制の構築

与野党・各界の反応

患者団体:歓迎しつつも警戒

全国がん患者団体連合会や日本難病・疾病団体協議会は、凍結決定を歓迎する一方で、「撤回ではなく凍結」であることを警戒している。

秋までの再検討において、患者の声がどこまで反映されるかが焦点となる。

連合(日本労働組合総連合会):丁寧な議論を要請

連合は3月7日の事務局長談話で、「国民の声を受け止め、丁寧な議論が求められる」と述べた上で、以下の点を強調:

  1. 家計への影響を含めた丁寧な議論
  2. 急激な負担増の回避
  3. 社会保険加入への納得感の確保

医療関係者:財政と患者保護のバランスを

東京保険医協会など医療関係者は、見送りを評価する一方で、「政府は2026年以降の制度のあり方については2025年秋までに結論を出すとしており、高額療養費の自己負担上限額を引き上げる方針そのものを撤回してはいない」と指摘。

引き続き、制度改革の動向を注視する必要があるとしている。

保険業界:家計への備えを啓発

民間の生命保険・医療保険業界は、「2025年8月からの高額療養費制度における自己負担限度額引き上げは見送りとなりました。しかし、今後どのようになるかはわかりません」として、医療費の自己負担額増加に備える重要性を啓発している。

まとめ――持続可能性と患者保護の両立は可能か

2025年8月からの高額療養費制度見直しは、患者団体や国民の声を受けて全面的に凍結された。これは、民主主義が機能した結果とも言える。

しかし、これは「終わり」ではなく「始まり」である。2025年秋までに改めて方針を検討・決定することになっており、何らかの形で見直しが実施される可能性は高い。

今後の議論では、以下の両立が求められる:

【制度の持続可能性】

  • 高齢化と医療の高度化による医療費増加への対応
  • 現役世代の保険料負担の抑制
  • 次世代に引き継げる制度の構築

【患者保護】

  • 長期治療患者への過重な負担の回避
  • 低所得者への配慮
  • 経済的理由による受診抑制の防止

この二つは、一見すると矛盾するように見える。しかし、本当に両立不可能なのだろうか。

鍵となるのは、以下のような多角的なアプローチである:

  1. きめ細かな所得区分:負担能力に応じた公平な負担
  2. 医療費適正化:患者負担だけでなく医療費そのものの削減
  3. 予防医療の推進:病気にならない社会づくり
  4. 医療DXの活用:効率的な医療提供体制
  5. 高額薬剤の費用対効果評価:限られた財源の適正配分

石破首相(当時)が述べたように、「この高額療養費制度が、患者の皆様方にとって大切な制度でありますからこそ、丁寧なプロセスを積み重ねることが何よりも重要」である。

2025年秋までの議論が、真に国民にとって納得できる制度設計につながることを期待したい。そして、私たち一人ひとりも、この議論に関心を持ち続ける必要がある。なぜなら、これは私たち自身と家族の未来に直結する問題だからである。

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