はじめに――勇気ある告発が招いた4460万円の訴訟
組織の不正を正そうと声を上げた人が、逆に多額の損害賠償を請求される。そんな理不尽な事態が、日本では現実に起きている。
障害者が共同生活するグループホームで起きた不正を行政に通報した社会福祉士の青木智義さん(51歳・埼玉県)は、通報後に元勤務先から約4460万円の損害賠償を求める訴訟を起こされた。子どもが4人いるが、一番下はまだ中学生。訴状が届いた日の夜は、生活への不安からほとんど眠れなかったという。
青木さんは「公益通報を萎縮させることが目的の『スラップ(どう喝)訴訟』だ」として弁護士に相談し、反訴した。弁護士費用を支払わなければならず、貯金も取り崩して工面した。
このケースは決して例外ではない。不正を告発した結果、経済的・精神的に追い詰められた告発者は多い。一方で、2025年に公益通報者保護法の大きな改正が成立し、2026年中の施行が予定されている。本記事では、そもそも公益通報とは何か、現行制度の課題、そして改正によって何が変わるのかを整理する。
公益通報とは何か
制度の目的
公益通報者保護法は2006年に施行された法律で、「組織の不正をただすために声を上げた人を守ることで、不正の早期発見・是正を促し、国民・消費者の安全と利益を守ること」を目的としている。
簡単にいえば、「職場の不正を内部告発した人が、会社から解雇や降格などの報復を受けないように保護する法律」だ。企業や行政機関内部の法令違反行為を、外部に頼らず組織内部から是正させる仕組みとして機能することが期待されている。
公益通報の3つのルート
公益通報には、通報先によって大きく3つのルートがある。
まず内部通報。勤務先の企業や組織が設置している内部通報窓口(コンプライアンス窓口など)に対して行う通報だ。最も一般的なルートで、内部で問題を早期解決することを目指す。
次に行政機関への通報。監督官庁や規制機関など、処分権限を持つ行政機関に対して行う。今回の毎日新聞報道で紹介された青木さんのケースも、このルートにあたる。
3つ目が報道機関・消費者団体等への通報。内部通報や行政機関への通報では是正が期待できないと判断される場合に、マスコミや消費者団体などに対して通報するルートだ。ただし、このルートが認められるには一定の要件が求められる。
保護される通報者の範囲
現行法では、保護の対象となる通報者は「労働者・派遣労働者・退職後1年以内の元従業員・法人の役員等」とされている。また、通報の内容が法律で定められた「通報対象事実」(刑法や食品衛生法など特定の法令違反)に関するものである必要がある。
現行制度の課題――なぜ告発者は守られないのか
制度が「形骸化」している実態
2023年に消費者庁が実施したアンケートでは、事業者内で重大な法令違反行為を目撃したとしても、労働者が公益通報を躊躇・断念してしまうおそれがある状況など、制度の実効性に関する課題が確認された。また、公になっている企業不祥事の第三者委員会報告書において、「内部通報制度が有効に機能しなかった」「内部通報制度が形骸化していた」というような記述が現在でも散見される。
制度はあるが、機能していない。その根本には、通報者を守る仕組みの不足がある。
「スラップ訴訟」という逆襲
今回話題になったように、通報者が逆に元勤務先から多額の損害賠償を請求される「スラップ訴訟」は、公益通報を萎縮させる深刻な問題だ。スラップ(SLAPP)とは「Strategic Lawsuit Against Public Participation(社会参加に対する戦略的訴訟)」の略で、発言や告発を封じ込めることを目的とした嫌がらせ的な訴訟を指す。
通報者が訴訟を起こされると、弁護士費用や精神的負担は通報者側にのしかかる。たとえ通報の内容が正当であっても、訴訟を戦い続けるために多大なコストを負わなければならない。このような状況が、潜在的な告発者に「声を上げることは割に合わない」と感じさせ、不正の温床を守ることになってしまう。
立証責任の問題
現行法では、「公益通報を理由に解雇・降格などの不利益な扱いを受けた」と主張するとき、その証明責任は通報者側にある。しかし、組織内部の意思決定を外部の立場から証明することは非常に困難だ。このため、不当な扱いを受けても泣き寝入りせざるを得ないケースが多かった。
2025年改正法の概要――何が変わるのか
「公益通報者保護法の一部を改正する法律」は、2025年6月4日に第217回通常国会において成立し、同月11日に公布された。施行は2026年12月1日の予定だ。この改正は、2022年施行の前回改正に続く第2弾の大幅な改正であり、以下のような内容が盛り込まれている。
1. 解雇・懲戒に刑事罰を導入
改正法は、公益通報を理由とした解雇・懲戒をした個人に対して刑事罰(6月以下の拘禁刑または30万円以下の罰金)を科すとともに、事業者も刑事罰(法人の場合3,000万円以下の罰金)の対象にすることとした。
これは画期的な変更だ。これまで解雇・懲戒への制裁は民事上の損害賠償や無効確認にとどまっていたが、刑事罰の導入によって抑止力が大幅に高まることが期待される。
2. 立証責任の転換(推定規定の新設)
通報後1年以内の処分は「報復と推定」される規定が新設される。無実の証明は会社側の義務となる。
これにより、通報者は「報復を受けた」ことを自ら証明する必要がなくなり、企業側が「報復ではない」ことを立証しなければならなくなる。告発者にとって法的なハードルが大きく下がる改正だ。
3. フリーランスへの保護対象拡大
フリーランス(業務委託契約終了から1年以内の者を含む)が新たに保護対象となる。従来は「労働者」が前提だったため、フリーランスや業務委託者は制度の保護対象外とされていた。働き方の多様化が進む中、この拡大は重要な一歩といえる。
4. 通報妨害・通報者探索行為の明確な禁止
誰が通報したかを組織が調べる「通報者探索行為」や、通報を妨害する行為が明文で禁止される。内部告発者の身元が漏れることへの恐怖が通報をためらわせる大きな要因だっただけに、この明文化は実効性向上に直結する。
5. 行政権限の強化
体制不備への立入検査が導入され、是正命令違反への罰則も強化される。消費者庁による実効的な監督が可能となり、制度の形骸化を防ぐ効果が期待される。
残された課題
改正によって保護は強化されるが、課題も残る。
一つは「スラップ訴訟」への直接的な対策だ。今回の改正では、通報者が逆に損害賠償請求を受けた場合に費用を支援する仕組みは盛り込まれていない。訴訟を起こされた告発者が経済的に追い詰められる問題は、引き続き制度の外側に残る課題だ。
もう一つは制度の「実効性ある運用」だ。2025年には内部通報制度の運用の不適切さが注目を集め、消費者庁が同年5月22日付で行政機関に対して「対応の徹底」を通知している。企業に対しても、制度の「形」ではなく「運用の実効性」が強く求められている。法律を整えるだけでなく、組織文化として内部通報が機能する環境を作れるかどうかが問われている。
まとめ
公益通報制度は、組織の不正を内部から是正するための重要な仕組みだ。しかし現実には、勇気を持って声を上げた人が経済的・精神的に追い詰められるケースが後を絶たない。2026年施行予定の改正法は、刑事罰の導入・立証責任の転換・フリーランスへの保護拡大など、告発者を守る方向での大きな前進といえる。
一方で、スラップ訴訟への対策や組織文化の変革といった課題は依然として残る。法改正は「ゴール」ではなく「スタート」に過ぎない。告発者が守られ、不正が正される社会が実現するかどうかは、法律を運用する企業・行政・社会全体の姿勢にかかっている。
本記事は2026年2月時点の情報に基づいています。改正法の施行に向けて、今後ガイドラインや指針の改定が行われる予定であり、最新情報は消費者庁の公式サイトをご確認ください。
