序章:島根の田舎政治家が日本を動かした576日
「だんだん」——これが、竹下登の口癖だった。島根の方言で「ありがとう」を意味するこの言葉を、竹下は永田町でも使い続けた。
泥臭い、田舎臭い、そして何より「人たらし」。竹下登ほど、人間関係の機微を知り尽くした政治家はいなかった。派閥の領袖として、徹底的に根回しをし、決して敵を作らず、しかし確実に権力の階段を上っていった。
消費税を導入し、ふるさと創生事業で全国の自治体に1億円をばらまき、リクルート事件で失脚した。在任期間わずか576日。しかし、その影響力は退陣後も続き、「竹下派七奉行」として次世代のリーダーたちを育て上げた。
「金丸信・竹下登」体制は、昭和から平成への転換期に、日本政治を牛耳った。その功罪は、今も評価が分かれる。
島根の教師から総理大臣へ。「だんだん」と感謝を繰り返しながら、しかし確実に権力を掴んだ男の生涯を、ユニークなエピソードとともに追ってみよう。
第1章:島根の教師から政治家へ
出雲の商家に生まれて
昭和3年(1924年)2月26日、島根県簸川郡(現在の雲南市掛合町)で竹下登は生まれた。父・竹下勇造は造り酒屋を営む商人。地元では名の知れた旧家だった。
幼少期の登は、内気でおとなしい少年だった。「登は、人見知りが激しくて、なかなか友達ができなかった」と母は回想している。
しかし、この内気さが、後の竹下の「人たらし」の技術につながることになる。人見知りだからこそ、人の気持ちを察する能力が磨かれたのだ。
早稲田から教師の道へ
旧制松江高等学校(現在の島根大学)を経て、早稲田大学商学部に進学。昭和22年(1947年)に卒業した。
卒業後、登は故郷の島根に戻り、高校の教師となった。商業科目を教える傍ら、柔道部の顧問も務めた。
教師時代の竹下は、生徒たちから慕われていた。「竹下先生は、怖いけど優しかった」「一人一人の名前を覚えて、気にかけてくれた」——教え子たちの証言である。
この「一人一人を大切にする」姿勢が、後の政治家・竹下登の基礎となった。
政界入りの決意
昭和26年(1951年)、27歳の竹下は、突然教師を辞めて政界に飛び込んだ。きっかけは、地元の有力者からの誘いだった。
「登、島根のために働いてくれないか」——この言葉が、竹下の心を動かした。
昭和27年(1952年)、28歳で島根県議会議員選挙に立候補し、初当選。政治家・竹下登の誕生である。
第2章:「人たらし」の修業時代
衆議院議員への挑戦
昭和33年(1958年)、34歳の竹下は衆議院議員選挙に島根県から立候補し、初当選。永田町デビューを果たした。
しかし、竹下は決して目立つタイプではなかった。演説は下手で、容姿も地味。「島根の田舎政治家」という印象だった。
それでも竹下は、地道に人間関係を築いていった。先輩議員を訪ね、秘書たちと飲み、官僚たちと話す——とにかく、人と会い続けた。
佐藤栄作との出会い
竹下の政治人生を決定づけたのが、佐藤栄作との出会いである。竹下は佐藤派に所属し、佐藤の側近として働くようになった。
佐藤は、竹下の「人たらし」の才能を見抜いていた。「竹下は、人の気持ちが分かる男だ。将来、大物になる」。
竹下は、佐藤から政治の極意を学んだ。特に、「根回し」の重要性を徹底的に叩き込まれた。
「政治は、根回しが9割だ。表舞台に出る前に、すべて決めておく」——佐藤の教えである。
田中角栄の弟子として
佐藤栄作の後、竹下は田中角栄に接近した。田中派(後の経世会)に所属し、田中の右腕として活躍するようになる。
田中角栄と竹下登——この二人の組み合わせは、意外だった。豪快で派手な田中と、地味で慎重な竹下。性格は正反対である。
しかし、この組み合わせが機能した。田中がアイデアを出し、竹下が実務をこなす。田中が表舞台で演説し、竹下が裏で根回しする。
「竹下がいなければ、私の政治は成り立たない」——田中は、竹下を高く評価していた。
第3章:大蔵大臣として頭角を現す
昭和54年(1979年)、大蔵大臣就任
昭和54年11月、竹下は大平正芳内閣で大蔵大臣に就任した。55歳。遅咲きの閣僚就任だった。
大蔵大臣として、竹下は堅実な財政運営を心がけた。派手さはないが、着実に仕事をこなす——竹下のスタイルである。
特に、竹下が力を入れたのが「一般消費税」の導入だった。当時の日本は、財政赤字が深刻化しており、新しい税収源が必要だった。
しかし、この「一般消費税」構想は、国民の激しい反発を招いた。大平首相は、選挙で「一般消費税は導入しない」と公約せざるを得なくなった。
竹下は、この挫折から重要な教訓を学んだ。「消費税は必要だ。しかし、タイミングと説明の仕方が重要だ」。
中曽根内閣での再任
昭和57年(1982年)、中曽根康弘内閣が成立。竹下は再び大蔵大臣に就任した。
中曽根と竹下——この組み合わせも、意外だった。「大統領型」の中曽根と、「調整型」の竹下。しかし、二人は意外にも相性が良かった。
中曽根が大胆な政策を打ち出し、竹下がそれを実現可能な形に調整する。この役割分担が、うまく機能したのである。
昭和60年(1985年)のプラザ合意では、竹下が日本側の交渉責任者として活躍。急激な円高を受け入れる決断を下した。
第4章:「創政会」結成と田中角栄との決別
田中派の分裂
昭和60年(1985年)、竹下は重大な決断を下す。田中派からの独立である。
田中角栄は、ロッキード事件で有罪判決を受けたものの、依然として田中派を支配していた。しかし、竹下は「もう田中先生の時代は終わった」と判断した。
竹下は、田中派の若手・中堅議員を集めて「創政会」を結成。事実上の田中派分裂である。
田中は激怒した。「竹下は裏切り者だ!」。しかし、竹下は田中との決別を選んだ。
金丸信との連携
この田中派分裂で、竹下を支えたのが金丸信である。金丸は田中の側近中の側近だったが、竹下の独立を支持した。
「金竹小」——金丸信、竹下登、小沢一郎。この三人が、新しい派閥(経世会)の中核となった。
特に、金丸と竹下の連携は強固だった。「金丸・竹下体制」は、その後10年近く、自民党を支配することになる。
「経世会」の誕生
昭和62年(1987年)、創政会は「経世会」(けいせいかい)と改称した。正式名称は「平成研究会」だが、竹下の雅号「経世」から「経世会」と呼ばれた。
経世会は、瞬く間に自民党最大派閥となった。竹下の「人たらし」の技術が、多くの議員を引き寄せたのである。
第5章:遂に総理大臣へ—消費税との戦い
昭和62年11月6日、首相就任
昭和62年(1987年)11月6日、竹下登は第74代内閣総理大臣に就任した。63歳。中曽根康弘からの禅譲である。
就任演説で、竹下は「ふるさと創生」を掲げた。地方の活性化こそが、日本の課題だという主張である。
また、「世界に貢献する日本」をスローガンに、国際社会での積極的な役割を訴えた。
消費税導入への執念
竹下の最大の目標は、消費税の導入だった。大蔵大臣時代に挫折した「一般消費税」を、今度こそ実現させる。
竹下は、慎重に準備を進めた。まず、「税制改革」という大きな枠組みの中で、消費税を位置づけた。所得税減税とセットで、消費税を導入する——このパッケージが重要だった。
また、竹下は全国を回って、丁寧に説明した。「消費税は、公平な税制です。高齢化社会を支えるために、必要なのです」。
野党は激しく反対した。「消費税は、庶民増税だ!」「竹下は売国奴だ!」——国会は連日紛糾した。
昭和63年12月24日—消費税法成立
昭和63年(1988年)12月24日、消費税法が成立した。クリスマスイブの強行採決だった。
竹下は、政治生命を賭けた戦いに勝利した。平成元年(1989年)4月1日、消費税3%が導入された。
この消費税導入は、賛否両論だった。「財政の健全化に貢献した」という評価がある一方、「庶民の負担を増やした」という批判もある。
ふるさと創生事業—全国の自治体に1億円
竹下政権のもう一つの目玉政策が、「ふるさと創生事業」である。
全国の市町村に、一律1億円を交付する。使い道は自治体が自由に決められる——この大胆な政策は、大きな話題を呼んだ。
ある自治体は、この1億円で温泉施設を作った。ある自治体は、純金のこいのぼりを作った。中には、無駄遣いと批判されるものもあった。
しかし、この政策は地方の活性化に一定の効果があった。何より、「国が地方を忘れていない」というメッセージを発信できた。
第6章:リクルート事件と突然の退陣
リクルート事件の発覚
平成元年(1989年)初頭、「リクルート事件」が発覚した。リクルート社の未公開株が、政財界の有力者に譲渡されていたという疑獄事件である。
この事件に、竹下の名前も浮上した。竹下自身は株を受け取っていなかったが、秘書や関係者が株を譲渡されていた。
野党は「竹下首相の道義的責任は重大だ」と追及。連日、国会で糾弾された。
支持率の急落
リクルート事件により、竹下内閣の支持率は急落した。一時は3%という、史上最低レベルまで落ち込んだ。
消費税への不満と、リクルート事件への怒り——この二つが重なり、国民の竹下への評価は最悪となった。
平成元年6月3日—退陣表明
平成元年(1989年)6月3日、竹下は突然、退陣を表明した。在任期間わずか576日。1年半の短命内閣だった。
記者会見で、竹下は涙を浮かべながら語った。「国民の皆様に、ご迷惑をおかけしました。だんだん(ありがとう)」。
最後まで、島根の方言で感謝を述べる竹下らしい退陣だった。
第7章:「闇将軍」として君臨
退陣後も健在な影響力
退陣後も、竹下の影響力は衰えなかった。経世会の領袖として、自民党を裏から支配し続けた。
「竹下の了承なしには、何も決まらない」——こう言われるほど、竹下の力は絶大だった。
特に、「竹下派七奉行」と呼ばれる若手・中堅議員を育成した。小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六、羽田孜、小沢一郎、奥田敬和、渡部恒三——この七人が、平成の政界を牛耳ることになる。
金丸信との「二頭体制」
竹下と金丸信の「二頭体制」は、退陣後も続いた。竹下が政策を、金丸が人事を——この役割分担で、自民党を支配した。
「金竹小」——金丸信、竹下登、小沢一郎。この三人が、平成初期の日本政治の実権を握っていた。
小沢一郎との確執
しかし、やがて竹下と小沢一郎が対立するようになる。小沢は、より急進的な改革を主張し、竹下の慎重な姿勢に不満を持つようになった。
平成5年(1993年)、小沢は経世会を離脱し、新生党を結成。自民党を割って出た。
竹下にとって、これは大きな痛手だった。「小沢は、私が育てた。それなのに…」——竹下は、複雑な思いを抱いた。
第8章:知られざる竹下登の素顔
「だんだん」という口癖
竹下の最大の特徴は、「だんだん」という口癖だった。島根の方言で「ありがとう」を意味するこの言葉を、竹下は永田町でも使い続けた。
「だんだん、だんだん」——竹下は、会う人すべてに感謝を述べた。
この「だんだん」が、竹下の人間関係を支えていた。感謝を忘れない姿勢が、多くの人々の心を掴んだのである。
メモ魔だった竹下
竹下は、驚異的なメモ魔だった。会った人の名前、話した内容、約束事——すべてを細かくメモに取った。
そして、後でそのメモを見返し、約束を守り、相手の誕生日に手紙を送る。この細やかさが、「人たらし」の秘訣だった。
ある議員の証言:「竹下さんは、私の息子の誕生日まで覚えていて、誕生日カードを送ってくれた。そんな政治家は、他にいない」。
酒を飲まない政治家
意外なことに、竹下は全く酒が飲めなかった。政治家としては、大きなハンディキャップである。
しかし、竹下は酒なしで、人間関係を築いた。宴席では、ウーロン茶を飲みながら、話を聞き続ける。
「竹下さんは、酒が飲めないのに、宴会が上手かった」——多くの人が、こう証言している。
書道と演歌を愛した
竹下は、書道が得意だった。達筆で知られ、多くの人が竹下の書を求めた。
また、演歌が大好きだった。特に、島倉千代子の「人生いろいろ」がお気に入りで、よく口ずさんでいた。
この「人生いろいろ」は、後に中曽根康弘が国会答弁で使って話題になったが、実は竹下も愛唱していたのである。
第9章:平成12年6月19日—76歳の死
糖尿病との戦い
晩年の竹下は、糖尿病に苦しんだ。足を切断する手術も受けたが、病状は悪化していった。
それでも竹下は、政治への関心を失わなかった。病床でも、来訪者と政治の話をし、後進への助言を続けた。
最期の言葉
平成12年(2000年)6月19日早朝、竹下登は東京都内の病院で老衰のため死去。享年76歳。
最期の言葉は、「だんだん」だったという。
島根の方言で「ありがとう」——竹下は最期まで、感謝を忘れなかった。
国民葬で送られる
竹下の葬儀は、国民葬として営まれた。政財界から約5000人が参列した。
弔辞では、竹下の功績が称えられた。「ふるさとを愛し、人を愛した政治家」「地道な努力で、日本を支えた」。
しかし同時に、リクルート事件や消費税導入への批判も、根強く残っていた。
第10章:竹下登の遺産
消費税という「功績」と「罪」
竹下の最大の功績は、消費税を導入したことである。
消費税は、現在では日本の税収の約3割を占める、重要な財源となっている。高齢化社会を支える上で、消費税は不可欠だった。
しかし同時に、消費税は国民の負担を増やした。特に、低所得者への影響は大きかった。
竹下の決断は、正しかったのか?この問いに対する答えは、今も分かれている。
「ふるさと創生」という理念
竹下が掲げた「ふるさと創生」という理念は、今も生き続けている。
地方を大切にする、地方の独自性を尊重する——この考え方は、現在の地方創生政策にも受け継がれている。
竹下自身が、地方出身の政治家だった。だからこそ、地方への思い入れは強かった。
「人たらし」という政治手法
竹下が確立した「人たらし」の政治手法は、その後の政治家たちに大きな影響を与えた。
根回し、調整、人間関係の構築——これらは、日本政治の重要な要素である。
竹下は、この「調整型政治」の名人だった。派手さはないが、確実に結果を出す。この手法は、今も有効である。
「経世会」という派閥
竹下が作った経世会は、その後の自民党を支配した。小渕恵三、橋本龍太郎、小渕派、橋本派と名前を変えながらも、長らく自民党最大派閥として君臨した。
ただし、小沢一郎の離反以降、経世会は分裂を繰り返し、かつての勢いはない。
結論:「だんだん」と言い続けた男が残したもの
竹下登という政治家を、どう評価するか。
派手さはなかった。演説も下手だった。容姿も地味だった。しかし、竹下ほど「人間」を知り尽くした政治家はいなかった。
一人一人の名前を覚え、一人一人に感謝を伝え、一人一人の話を聞く——この地道な努力の積み重ねが、竹下を総理大臣にした。
「だんだん」——感謝を忘れない心。これが、竹下の政治の原点だった。
消費税導入という大仕事を成し遂げながら、リクルート事件で失脚した。光と影が交錯する、複雑な政治家だった。
しかし、竹下が残したものは大きい。消費税、ふるさと創生、人材育成——これらは、今も日本社会に影響を与え続けている。
島根の田舎政治家が、日本のトップに立った。そして、「だんだん」と感謝を繰り返しながら、確実に仕事を成し遂げた。
地味だが、誠実。派手ではないが、着実。これが、竹下登という政治家の本質だった。
令和の今、政治家に求められるものは何か?派手なパフォーマンスか、それとも地道な努力か?
竹下登の生き方は、その問いへの一つの答えを示しているのかもしれない。
「だんだん」——感謝を忘れず、人を大切にし、地道に努力する。この当たり前のことを、当たり前にやり続けることの大切さを、竹下は教えてくれている。
本記事は歴史的事実に基づいて構成されていますが、一部の逸話や評価については諸説あることをご了承ください。

